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優馬は腹を立てるよりも驚いてしまい、しばらく耳を真っ赤にし息を整えている草太を、唖然として見つめた。
菜々美は何も言わず、ただその光景を見つめている。
人通りのない通学路で、しばらく草太の呼吸だけが静かに響く、奇妙な数十秒だった。
「ごめん……優馬。茶化すつもりじゃなかったんだけど」
やっと声を出した草太の手が、軽く優馬の指先を握り、そしてすぐに離れて行った。
「俺、先に帰るよ。ほんと、……腹が痛くなってきた。またな」
その手はとても熱く、そして震えているように優馬には思えた。
このうさぎの話は、そんなに泣いて笑われるほどおかしなものだったのだろうか。
草太の姿が角を曲がった頃、ようやく優馬は少し情けなくなり、救いを求めるように菜々美を見た。
「身を投げ出してもいいから、助けてあげたいと思う人がいるんだね、優馬には。誰? あのお母さん?」
その目はまるで包み込むように優馬を見つめてきた。
けれどもう、本心を晒して笑われたくない。
優馬は一瞬そう思い、視線を逸らした。
「でも人は、あのお話のうさぎみたいに純粋に他人を救うことなんてできないよ。無償の愛なんて、童話の中のきれいごとなんだと思う。人間は、天使にはなれないのよ」
少し暮れてきた景色の中に、菜々美の体が溶け込んでいくように思えた。
白い開襟シャツが夕空の色と同化する。
「天使でいられるのは、母親のおなかの中にいる間だけ。人間に生れ落ちちゃったらもう、本当にきれいな、真っ白な気持ちのまま生きていけないのよ」
菜々美のささやきは、優馬にというより、自分自身に言い聞かせているようにも思えた。
自分が好意を寄せているこの少女は、実はもう手の届かない世界の住人なのかもしれない。
そんな気がして、堪らなくなった。
◇
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