第1話 悪夢と共に

5/5
前へ
/185ページ
次へ
『ずるい子よね』 回復して小学校へ登校する途中。家の近くの公園で立ち話をする近所の主婦たちの横を通り過ぎたとき、そんな言葉が耳から流れ込んできた。 優馬とは何の関係もない会話だったのかもしれない。 けれどもその単語はしばらく、優馬の胸に深く突き刺さったまま取れなかった。 僕は何もしていない。そう言えたらどんなに楽になれただろう。 でも言えなかった。記憶がないのだから。 あの消えた時間が、優馬を深くて暗い沼の底に引きずりこみ、足枷をはめた。 悲劇はそれだけで終わらなかった。 それから3年後、つまり今から2年前の冬、居眠り運転の車が今度は優馬の父親を奪っていったのだ。 木戸家に残されたのは、新築して数年の小さな家と、血のつながらない母子だけだった。 「優馬」 ぼんやりリビングの隅の簡易仏壇のほうに目を向けていた優馬は、びくりと体を跳ね上がらせた。 「どうしたの、ぼんやりして。ほらちゃんと時間見なさい? 遅刻するよ」 からりとした笑顔で紀美子は優馬を見つめた。 出会った頃と全く変わらない、若々しく可愛らしい笑顔だと感じる。 ″いいよな、優馬のお母さんは若くて美人で。お姉さんみたいじゃん” 継母だと知らないクラスメイトが耳打ちしてくるほど、紀美子は優馬から見ても素敵な女性であり、そして優馬は今でも、どうしようもないほど紀美子が好きだった。 紀美子はこの5年間、優馬を疑う様な素振りなどしなかったし、ましてや冷たく当たってきたことなど一度もなかった。 自慢したくなるほど、優しい母親だった。 けれどそのことが逆に優馬を不安にさせる。 本当に紀美子が優馬をどう思っているのかが、知りたくて堪らなくなる。 けれど臆病な優馬は、決してそれを紀美子に聞くことなど出来ないのだ。 「わ~、こんな時間だ。もう行くね」 カバンを持ち、父と直の遺影が置かれている仏壇を見ないようにして、慌てて玄関へ走る。 最後まで自分を疑って死んだ父と、3か月になったばかりの直のつぶらな瞳が遺影の中からじっと自分を見つめているようで、苦しかった。 未だに自分は、深くて暗い沼の底に括り付けられている。 優馬は、そんな気がしてならなかった。
/185ページ

最初のコメントを投稿しよう!

142人が本棚に入れています
本棚に追加