第12話 微震

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「草太、ちょっと待って」 朝、学校に行こうと玄関へ向かっていた寺山草太を呼び止めたのは、関谷信夫(せきや のぶお)だった。 この古い2LDKの賃貸マンションで一緒に暮らしている39歳の男だが、草太の父親ではなかった。 正確には「まだ、正式な父親では無い」と言った方が良いかもしれない。 2年前に小さなバーのママをやっている草太の母親、寺山京子が連れてきた居候だ。 このひょろりとした気の弱そうな男のどこがいいのか未だに分からないのだが、母親が連れてきた男に草太は特に文句を言うつもりは無かった。 私生児で草太を産み、ビルの地下の小さな店を切り盛りしながら必死に育ててくれている母に、今まで不満を言ったことはない。 腹を立てたことも無い。 好きになった男がいるなら一緒に暮らすことも、草太はかまわないと思った。 第一印象は「冴えない男」だったが、信夫はごく自然に寺山家に溶け込んだ。 酒は大好きだが、粗野な所の少しもない、穏やかで優しい性格だった。 夜の仕事を終えた後は決まって昼過ぎまで寝ている母親に代わり、草太に朝食まで作ってくれる。 水曜日と土曜日は洗濯と掃除をする日だと信夫は自分で決めているようで、自分の出勤前にきちんとそれをこなしている。 人畜無害の顔でにっこりと草太に笑いかけ、「おはよう」や「おやすみ」を言ってくれる。 京子が行くことのできない学校行事には必ず行ってくれるし、時々勉強も見てくれる。 もともと信夫は店の客だったのだが、輸入雑貨店の共同経営者に騙され、文無しになり住むところをなくしたところを京子に拾われたらしい。 京子は昔から情にもろいところがあったが、どうやら今回は本当に惚れているらしかった。 草太としては、一緒に暮らしたいと思うほど好きな訳では無かったが、同時に、嫌う理由も特になかった。 いつか籍を入れたとしても、「お父さん」と呼ぶことはないだろうな、とは、漠然と思うのだが。 拒否しているのではなく、お父さんという言葉を使い慣れていないので、しっくり来ないのだ。 信夫は草太にとって「母親のいい人」であり、そして「ずっと同居していく人」という、うっすらとした存在だった。 その信夫が、リビングの方から声を潜めて草太を呼んでいる。 草太は靴を履きながら振り返った。 「なに?」
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