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「おっと、もう8時じゃないか。言ってくれよ、剛志」
療養中の父、忠彦がシャツの袖をまくり上げ、二の腕のデュロテップを張り替えるのを、松宮剛志は面倒くさそうに横目で見た。
「知りませんよ。時間くらい見れるでしょ。子供じゃあるまいし」
「相変わらず冷たいよな、お前は。誰が産んだと思ってんだ」
「父さんじゃないですから」
忠彦の口調は余命宣告を受けたとは思えぬほど明るく、から元気であったとしても、その精神力だけは尊敬に値した。
最高の膏薬だね、と忠彦が絶賛するデュロテップパッチは薬などではなく、痛みを和らげるだけの医療用合成麻薬だ。
三日に一度、決まった時間に決まった場所に張り付ける。
人によって効果に差があるそうだが、忠彦の体質には合うらしく、おかげで背中の痛みはずいぶん楽になるのだという。
「痛みさえなければ、けっこう何とかやっていけるもんだよ」
「じゃあ仕事帰りの僕を携帯で呼びつけるのはやめてください」
「いいじゃないか、ちょっと食いたいものを頼むくらい。本当に冷たいよな、お前は」
あまりにももっともなボヤキだったが、松宮の言葉も全て本心だった。
冷たい息子だと言われるのは百も承知。できればこの部屋にも、あまり近寄りたくなかった。
この父親のことは嫌いではなかった。
いや、本当のところ、子供の頃は神経質な母親よりもむしろこの父親に懐いていた。
いつもあちこち付いて回り、忠彦が仕事や用事で出かけるたびに、玄関で泣いた。
けれど今はもう、その血のつながりが煩わしくさえある。
幼い日々を過ごしたリビングは家具も配置もそのままだったが、なぜだかこの空間が懐かしい場所だと松宮には感じられなかった。
幼い頃の、まだ純粋だった自分が過ごした場所であることが余計に寒々しさを感じさせる。
ここには真実など無かったのだと、改めて思い知る。
松宮は食卓の椅子に座ったまま、首だけ動かして部屋を眺めた。
寝室のドアは今日もぴたりとしまっていたが、松宮はじっとそれを見つめた。ある意味、わざとらしく。
眉根が自然と皺を刻む。
「菜々美を、抱いたんですか?」
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