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もう絵などやめたらどうかと、この家にあったすべての絵具を処分したのは4日前だ。
小さな子供と同じで、この男はおもちゃがあれば、すぐに遊びたがるのだ。
最後に菜々美を描いた絵具のチューブがリビングの床に転がっていて、怒りに任せて握った瞬間、手の中ではじけた。
背徳のバーミリオン。
この男と自分の中に流れる、同じ色の血。 吐き気がした。
この父親が、年端もいかない少女に強く惹かれてしまう性癖の持ち主だと知ったのは20歳の時だった。
描き溜めた幼い裸体のクロッキー、どこかで手に入れたらしい画像、きっと捨てるつもりで書いただろう手記や詩。
書斎でそれらを見つけ、すべてを知り、亡き母を想い嘆き、同時に自分の中の何かが壊れた。
その時の衝撃に比べれば、菜々美と忠彦が付き合っているというのは、それほど大きなものではなかった。
忠彦の心をつかんでしまったのが、自分の受け持つ生徒だった。ショックだったのはそれだけだ。
この男は多感な少女に無理強いをするようなことはしないだろうという楽観もあった。
コーヒーをすすりながら、忠彦がクスリと笑う。
「ふつうは、不道徳な真似をするなと、激怒するもんだよね」
「僕は、普通じゃないですから」
「なるほどね」
「菜々美が無理強いされてるなら、別ですが」
「ここに来るなって言っても、あの子はきっと来るよ。ここが好きみたいだ」
「じゃあ、問題ない」
「それ問題発言だよね、松宮先生」
「それに」
「それに?」
「あと、少しのことでしょうから」
「ああ。……なるほどね」
今度こそ納得したといった様子で、忠彦はまた笑った。
「もう少しだし。そっとしといてくれると、有難いよ」
空気が悪くなった。松宮は「帰ります」と立ち上がる。
「あ、それから剛志」
「まだ何かあるんですか」
「あの先代の厄介者モーテル、取り壊すことにしたから。そのうち業者も下見に入るよ。よろしく」
「よろしくって…」
また絵を移さなければならなくなる。
松宮は心底脱力し、憮然として部屋を後にした。
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