第1話 悪夢と共に

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ただ感覚として残っているのは、ひたひたと忍び寄ってくる焦りだった。胸の奥がひんやりとするような、温度の低い不快な焦りだった。 父も紀美子も、今までと変わりなく優馬には優しかったし、優馬もその待遇に何の不満もなかった。そのはずだった。 けれど、うまく思い出せないのだ。弟、直に関する感情が。 そして、すっぽりと、きれいさっぱり抜け落ちている記憶がもう一つあった。 3ヵ月になった直が、ベビーベッドの上で死んでしまった、あの夏の白昼の記憶だ。 紀美子がほんの少し、近所の家に用事で出かけている数十分。 優馬にはその間の記憶が、全くない。 覚えているのは、紀美子が「ちょっとだけ直を見ててね」と玄関を出ていった時に、直がベビーベッドの上に仰向けでスヤスヤと眠っていたことと、その時家の中に居たのは、自分と直の二人きりだったということだけだ。 数十分の空白。 気が付いたときには、紀美子が半狂乱で直の名を呼び、ベッドサークルの中でうつぶせて動かなくなった小さな体を必死にゆすっていた。 死因はSIDS(乳児突然死症候群)と診断された。 うつぶせ寝がSIDSの原因だとは限らないが、気道や胸を圧迫されたその体勢が直の体に何らかの影響を与えた可能性は大きかった。 首すわりも不完全で、寝返りなど想定できなかった直が、なぜうつぶせで死んでしまったのか。 その疑問を優馬に問い詰めたのは父親だった。 「何をしたんだ。直の傍に、お前はいたんだろう?」 父親の質問が、まるで犯人を探るような口調になったのには理由があった。 うつぶせた直の胸の下に、いつも優馬が持ち歩いていた小さなゲームウォッチが挟まっていたのだ。 ベッドによじ登り、身を乗り出さねばならないそんな位置に。 そして直の首筋には、明らかに直以外の人物の手によって、ひっかかれたと思われる傷が出来ていた。 手や足ではなく、まだ未熟で細く柔らかな、首に。 「覚えていることを正直に話しなさい、優馬!」 二度目に父親からそう訊かれた後、優馬にはしばらくチック症と呼ばれる顔面の痙攣や意識の混濁が現れ、直の葬儀にも出ず数日間入院した。 幼い優馬にあの日のことを問い詰めようとする者は、もう誰もいなくなった。
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