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午後9時半
怒涛の1日を終えた春子はお風呂を済ませて、いつものように電話を待つ。毎日、こちらから『今日は電話いりません』と連絡しない限り絶対にこの時間に電話がかかってくる。
携帯を持った今年からの習慣だ。
規則的なバイブ音と共に、液晶に《紺野 冬真》とだけ表示される。
お約束の3コール目で通話開始ボタンだ。
「もしもし、こんばんは。春子ちゃん」
優しく包んでくれそうな綺麗な声でこうして毎晩電話をしてきてくれるのは、横の家に住む紺野冬真さんだ。私が小さい時から可愛がってもらってる真面目な年上のお兄さんだ。私もテンプレート化してしまったいつものお返事をする。
「こんばんは、冬真お兄ちゃん。私は今日も元気だったよ」
いつもの事になったこのやり取りが少しまだくすぐったい。私は一人っ子の為にこうして年齢が近い―と言ってももう相手は30も過ぎている大人だけど―に話を聞いてもらうだけで随分と気が楽になる。
「そっかそっか、いい事だね。じゃあさ、何か変わったことは無かった?困ったこととか」
明るい口調から、少し心配そうな感情が混じった口調に変化した冬真お兄ちゃんがこれもまた、いつも通りの質問を投げかける。
普段ならここで何も無かったことや、勉強で分からなかったところを尋ねたりするが、今日は少し違っていた。
「あの、さ、冬真お兄ちゃん」
「何だ?」
「き、」
「き?」
「キスって、」
ここまで言ったところで電話の向こうでお兄ちゃんが盛大に噎せた声が聞こえた。慌てて「冬真お兄ちゃん!?」と応答を確認すると「あぁ、」と戸惑いが隠しきれてない返事が返ってくる。
「キスがどうかしたのか?」
早口でそう言い切るともう一度咳払いをして冬真お兄ちゃんが電話の向こうで座り直すような衣擦れの音が聞こえた。それに合わせてこちらも質問をもう一度し直す。
「あの、キスって好きな人と以外でも出来たりするんでしょうか。」
夕方に触れた唇の感触を思い出すように指で口元をなぞっている自分に気づき、もっと恥ずかしくなってぼっと顔が赤くなってくる。
「…そうだね。僕は…僕は好きな人じゃなければできない、けど、世間ではそうでない人が多いかな」
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