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『世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』
毎年、この時期になると思い出すのは、在原業平が詠んだ和歌だ。
今はまだ桜には早すぎる季節だが、二月の声を聴くとどうも穏やかではいられなくなる。
世の中にバレンタインデーがなければ、こんなに心をかき乱されることもないだろうに…
幼馴染の七瀬はどうやら昨日、チョコレートを買いに行ったらしい。
毎年、本命チョコは手作りで、義理であげるのは買ったチョコ。
本人から聞いたことはないけど、バレンタインの前日に決まってお隣からチョコの甘い香りが漂ってくるから嫌でもわかる。
毎年毎年、期待して待っているのに、バレンタインデーの夜に俺に渡されるのは手作りじゃないやつだ。
申し訳なさそうに眉を下げた七瀬を見ると、なんでだよ⁉ と言いたくなる。
どうして俺じゃないんだ?
こんなに愛してるのに。
ずっと七瀬だけを想っているのに。
七瀬は隣に住む俺を”お兄ちゃん”と呼んで、小さい頃からついてまわっていた。
それこそ『金魚のフン』のように、どこへ行くにもついてくる。
それが可愛くて仕方なかった。
七瀬への気持ちが恋だと気づいたのは、あいつが五年生のバレンタインの時だ。
七瀬が初めて好きな人にあげるんだと言って作っていたチョコは、俺じゃない誰かのためだったらしい。
結局、勇気が出なくて渡せなかったチョコは翌日、七瀬が自分で食べたと七瀬のばあちゃんから聞いた。
ばあちゃんはおかしそうに笑っていたけど、俺は全然笑えなかった。
まさか七瀬が俺以外の男を好きだなんて思いもしなかったから。
それ以来、毎年バレンタインデーは俺にとって一年で一番辛い日だ。
期待してはがっかりする。その繰り返し。
大学に入ってバイトを始めた俺は、今年のバレンタインデーは余計なことを考えないように仕事をすることにした。
恋人がいる奴はもちろんのこと、いない奴らもバレンタインデーは休みたがる。
昼から夜まで働けると言うと、店長は涙を流さんばかりに喜んだ。
『いやぁ、東条君はいい奴だな。
大丈夫。君にもきっといつか美人でグラマーな彼女ができるから。』
なぜか慰められるように肩を叩かれた。
別に、美人じゃなくてもグラマーじゃなくてもいい。
七瀬が彼女になってくれれば。
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