第1章

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 そのことに気づいたのは今朝、ベッドから出てカーテンをあけ、朝日に顔を歪ませて背伸びをしてから、おもむろに顔を洗っていたときだった。もらった石鹸の匂いにはすっかり慣れていた筈なのに、申し訳程度に、付属の石鹸置きとでもいうのか陶器の四足の小皿に安置しておいたそこから薫る空気が、弛緩した朝の頭をはっきりとさせたらしい。  ボクは顔を上げて鏡と向き合った。見開かれた目、しまったという口にいよいよ急かされて、身支度もそのままに、普段よりも随分早く玄関の扉に手を掛けた。 「――はい、これで手続きは済みましたんで、お疲れ様でした」 「すみません、お願いします……」 「まー、見つかる時はすぐなんですがね、一日って言うと……微妙ですね、物が物なんで」 「はい、分かりました」  外に並ぶ幾人かの視線を背中に感じて、ボクはそそくさと駅係員受付を離れた。アナウンスや喧騒や断続的な改札の電子音は、頭をぼんやりとさせるのに最適の素材だった。こんな風に逃避していても何にもならないのは分かっているけど、とはいえできることは済ませてしまっていた。  普段、肌身離さず持っているものの特長を伝えるのが意外と難しいことが分かった。でも、二度目は上手くいったと思う。その分、慰めの言葉も、暗に「諦めなさい」と言われるのも二度目になってしまったが。 「ま、大したものは入ってなかったかもなあ」  財布を落とした。これは他人事にはよく聞くし、歩いていれば蹴っ飛ばしてしまいそうなほどありふれた話ではあるのだけれど、いざ自分に起こってみると思わず強がりを口にしてしまうほどにはショックな事件だった。  昨日、足早に友人の新居から帰ってきて疲れのままに何とかシャワーだけ浴びて、ベッドに入ったのは覚えている。けれどその途中のどこで、あの住宅街のゴミステーションのところか、表通りに出たところか、駅か、電車の中か、それとも自分の部屋の中なんて間抜けなオチなのか、財布を落としてしまったのかは分からない。 「当たり前だ、それが“落し物”ってやつの持っている重要な性質なんだから」と、都市伝説研究会の先輩のまねをしてみても気は紛れない。改札のすぐ横で立ち尽くすボクを横目で見る人がいる。今の時間帯はサラリーマンとか、OLとか、明らかに「会社員です」という人が多いようで、でもその中に奇妙な風体の――
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