生い立ち

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 ぼくは鍵っ子。  物心付いたときは既にそう。隣の家のお姉さんやおばさんが一緒に過ごしてくれたことは多い。それでも、ほとんどの時間、自分ひとりで過ごしている。  ぼくが鍵っ子だったのは両親が共に働きに出ていたからだ。どうして両親が共に働きに出ていたかというと、どちらかひとりだけの稼ぎでは親子三人暮らしていくことができなかったからだ。どうしてどちらかひとりだけの稼ぎでは暮らしていくことができなかったかというと、それぞれの貰う給料が安かったからだ。どうしてそれぞれの貰う給料が安かったかというと、両親がそれぞれ勤めていた会社の規模が小さかったからだ。どうして両親がそんな小さな規模の会社に勤めていたかというと双方とも教育程度が低かったからだ。父親は一応大学を出ていたけれども、そこは脳味噌が随意筋でできたような不良たちが通う伝統的な吹き溜まりの底辺校。また母親は地方の農業高校出身だ。  さて、ではどうして両親の教育程度が低かったかというと、それは両親の親たちの教育程度が低かったからだ。  父方の祖父は自動車関連の技術者だったので亡くなる数年前に最終的に身体を壊して介護院のベッドから起き上がることができなくなるまで各種の修理工場や車検事業所などを転々とし、自分より先に他界した祖母共々飢えることはない。祖母の死後以降は見る間に体調を崩し、けれども身体の自由が利かなくなっても少しも惚けずに生涯を終える。もっとも頭が良かったわけではない。本当に手に職を持っていたというだけだ。だが不幸なことに成人してまでも祖母から溺愛されたその息子に才能が譲られない。当事は単に祖父と祖母の息子でしかなかったぼくの父親は祖母の溺愛からどうにかして逃れるため、吹き溜まりの底辺校からでさえ得ることができた国語科の高等学校用教職員免許を頼りに地方の私立学校に赴く。だが、それを裡で操っていたのは祖母だ。知り合いを通じた何らかの口添えがあったらしい。葬式か法事か、大勢の親戚が集まる席の畳の背に祖母方の親戚の一人が酔った口調でそう語っていたのを盗み聞く。真偽は不明。詳しいことまでは語られない。けれどもそれを踏まえて思い返すと、ぼくが生きてきたわずか二十年に満たない期間に垣間見た父親の何かにつけての不甲斐なさが、それを事実と認定しているように思えてくる。
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