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彼女はゆっくり顔を近づけてくる。僕は動くことが出来なかった。自分の唇に彼女の唇が触れた。遅れて甘い香りが鼻腔をくすぐる。頭が混乱する。自分の唇に柔らかい感触がある。目の前に彼女の顔がある。彼女は唇を離した。
「な……なにしてんねん」
視界が明滅する。
「……こっちの」台詞ですけど。
「なんや、あれや、人生、楽しいやろ」しゃがれたおじさんの声と、『惚れさせたる』女性らしい高い声が重なって聞こえた。これが彼女本来の声なのかもしれない。
「あの……なにを……」
「奇跡は起きひん」
「一体、なにを言って……」
「奇跡は私が起こしたる。教室に戻るんや」
里乃伽の瞳に強い意志がこもったように思えた。僕は言われるまま、放心したまま教室にとんぼ返りした。どこかふわふわとした心地で自分の席に着く。林道の背中をぼうっと見詰める。『くだらねえ』彼の声が聞こえた。
『なんで俺は勉強なんてしちまったんだ』
その声には沈痛な重みがあった。
『白金と有名な音楽家に乗せられちまったな。俺は勉強しちゃいけない人間だったんだ。勉強してると……苛々しちまう。俺は頭が悪いってことになるんだろうな。でも、それでいいぜ。勝手に俺を評価してろよ。俺の親もおかしいぜ。どうして勉強できるってだけで妹は褒められる。どうして俺は邪魔者扱いされる。なんで勉強できる奴が偉いってことになってんだ。勉強してる奴は褒められたいから勉強してるだけだ。大人に媚びてるだけだ。頭が良いくせに大人の言いなりなんだ。いや、そんなことはどうだっていい。どうして俺はこんな問題が解けないんだ。――いや、待て』
答案用紙を見下ろす林道の目が大きく見開いていった。
『待てよ。待て、待て。お、俺はとんでもない勘違いをしていたんじゃないか。問題が解けないのは俺のせいだと思ってた。問題を出した奴が上で、問題を解く俺が下だと勝手に思い込んでた。――やられた』
林道の肩が小刻みに震えていく。
『よく考えてみれば俺は問題を解こうと努力してる時点で満点だ。問題を出した奴は俺に解かれようと努力してるか? 俺は問題が解けない自分を責めた。問題を出した奴は一度でも自分を責めたか? そうだ。俺がこの問題を解けない理由は一つ。俺に問題を出した奴に問題があるからだ。問題を出した奴はどこのどいつだ?』
地獄の底から這い上がる悪魔のように林道は種河を睨んだ。
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