第1章

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 終着駅に着いた時にボクがしたことは、まっさきに人ごみをかきわける気合を入れることだった。  流れに逆らって進んでいくと見える色々な顔は、朝の眠気と一日の始まりへの期待感と昨日の記憶がない混ぜになった無表情として貼り付けられている。そしてボクはそのいくつも通り過ぎる顔の中に、自分と同じように逆送する男の背中を見つけた。  咄嗟に腕を伸ばして、そのすそをつかんだ。振り返った彼は諦めたような、何かを怖がるようなおかしな様子でその場にいて、逃げ出す素振りもない。徐々にはけていく乗客たちは、今がセリフのタイミングだとボクに教えているような気がした。 「財布、その財布のことなんですけど」と、それだからこそ落ち着いて言う事ができた、けれど、向こうはそうではない。 「た、頼むっ見逃してくれ!」 「いえ、あのですね――」 「騙されたんだ! それで金が必要になって、それで、」  癖なのか、のどぼとけを掻きながら男は話す。わずかな人の注目を集めていることが分かった。ボクが引っ張ると彼はついてきたので、壁際の大きな映画ポスター(『雨の日のポチ』という感動ストーリー)が見下ろす待合イスに二人して座った。 「いいですか、その財布はあなたのではないんですよね?」と、ボクはここに来る前にちらりと見ただけの記憶を反芻しながら聞く。多分間違っていないはずだ。 「あ、ああ……返すよ……」  男が絞り出すような声でそう言って、昨日ぶりの、見知った財布を取り出した。これで改札を通ったのを見たのに間違いはなかったようで、内心、ボクはほっとため息をついた。 「どこで拾ったんですか」  なんだか遠慮してしまって、まず口を付いて出たのはそんな質問だった。 「あそこだよ……あの路地裏」 「どこのですか」 「駅前の、ちょっと進むとアパートのある……」 「ああ、そうでしたか」  思ったとおりだ。財布を開けてみると記憶のとおりのものが入っていて、彼がちらりとこちらを見、「盗ってないよ、なにも」と搾り出すように告げる。大の大人とは思えない、子供じみた態度。 「あのね……それで、何で逃げたんですか」 「いや、それは――」 「勝手に定期まで使って、どこ行こうとしてたんですか」  ボクは逃げられては困ると、辛抱強くそうやって問いただすと、 「……頼む、助けてくれ」 「は、はあ?」  彼は頭を下げていた。
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