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――チセ。
今も声がきこえてくる。
――チセ、レラが吹いてるよ。
ひゅうっと耳もとで風が鳴る。髪が大きく舞い上がる。
身体の芯の熱を奪いながら、しっとりと夜露に濡らすように肌を撫でていく北海道の風。本州とは異質な、異国の匂いをはらんだ風だ。
――チセ。
見渡す限り広い大地を渡る風の向こう。穏やかで優しい彼の声が耳に届く。
果てしない空の道をたどりながら飛ぶ鳥の群れ。
陽の光を浴びてみずみずしく匂い立つミズナラやカツラの木々。
太平洋へ向かって流れゆく空の青を吸い込んだ沙流川の流れ。
まるで空気の粒子一つ一つに、命が宿っているようにきらめいている。
かつてこの地に、極寒の日々を気高い誇りとともに暮らした人々の古い集落があったのだと教えてくれたのは彼だった。
一本のハルニレの大木の面影を眼裏に描きながら、小高い丘で目を閉じて大きく息を吸い込む。清涼な空気が鼻から肺へ澄み渡って、身体の内側から浄化されていく気がする。
あふれるほどに思い出す。都会で見るよりも頂の高い星々を、遥かなる時の流れをともに見つめていた、あのわずかな日々。
そして、彼の澄み切った緑銀の瞳。
――チセ。
いつも私の名前を愛おしげに呼んでくれた。今でもここに立つと、彼のしなやかでたくましい身体に背中から抱きしめられているような気がする。
――チセ。
緑の葉が清けき音をたてる。木々の枝葉を揺らして、風が吹く。
私の好きなレラ〈風〉が通ってゆく。
今でも私は抱きしめている。彼の溶けたこの広い大地、そして私の中に残された爆ぜるような輝きを。
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