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「古傷の上に生傷か、痛んだでしょうに」
返事を期待せず問いかけるが、気絶しているようでやはり返事はない。
自身の息遣いと、時計の秒針の微かな音だけが静寂な空間に漂っていた。
「お前、どこから来たの?」
ノラ妖怪なのだし、訊ねてもきっと応えてくれないだろう。それが少しだけ寂しい。
「なんてね。応えてくれるわけないか…」
内心で溜息をつきながら、胸の傷に手を翳した瞬間だった。
カッ、と効果音でも付かんばかりに黒い妖は両目を開けた。
その目は澄んだ翡翠色で、猫のような瞳孔をしている。
「おい人間…」
男の這うように低い声音には、濃厚な敵意と警戒が満ちている。
僅かでも動けば、爪の餌食だろう。
「うわ、ちょ…ちょっと痛っ!」
ぞわりと渦の形に巻き上がった黒髪が蠢き、剣山のように逆立つ。
ギラギラしい殺意を容赦なく放射する黒い妖に、軋むほど強く腕を掴まれた香炎は、あまりの痛さに頬を微かに引きつらせた。
彼の行動が、妖ならではの仕方のない行為だと理解しているため文句は出ないが、痛いものは痛い。
人間なんて空を飛ぶ鳥よりも楽に手に入る獲物でしかないが故に、その扱いはどの妖も共通して雑だ。
「お前、本当に俺が見えているんだな?」
とは言えども、妖達に「そういう」ぞんざいで雑な扱いをされたことがない香炎は戸惑った。
人の身が雑に扱われるのは理解している。
しかし物心と物事の良し悪しの分別がつくまでを妖に育てられた香炎は、殺気に底光りする双眸に射られても恐怖どころか彼に好意すら覚えた。
人間として可笑しな存在だと自分でも理解しているけれど、どうしても「力になりたい」と身体が動いてしまうのだ。
「当たり前じゃない。そうじゃなきゃ、誰がここまで運んできたのよ」
「まあ、それもそうか。で、傷を治したのもお前か」
「乱暴だなぁ、そうだよ」
「けっ…人の癖になぜ構う。捨て置けばいいものを」
まるでゴミを放るように放された手は鈍い痛みを訴え、胸にも同じ軋みを与えた。
勢いよく背けられた彼の表情は不明だが、それは明らかな拒絶だ。
けれど、妖の双眸はそうされることを最も恐れているように見えた。
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