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そのとき室田は自分は仕事で忙しいからという理由で私と依子に自分の客へのハガキを書く作業を押しつけ、自分はクライアントのゴルフコンペに行った。
私たちは室田に押し付けられた千枚近い名刺から1枚1枚暑中見舞いを書き、ひどい腱鞘炎になった。
業務の終了後、3日連続で会社に残り、私たちが書き上げたハガキの山を見て、室田が放った一言は、「もっときれいな字でかけなかったの?」だった。
室田から感謝や労いの言葉を期待していたわけではない。それでもその一言をきいた時、私は身を焼くような悔しさと無力感とに苛まれた。
この日初めて、私はこの会社を辞めたいと思った。
でも辞める事はできなかった。
地元の四年制大学を出た私は、実家に母一人を残して東京に出てきた。
父は早くから他界し、母は自らパートに出て私をここまで育ててくれた。
私が東京でマスコミ関係の仕事がしたいと告げた時も、「早紀の好きなようにやったらええよ」と言って、いっさい反対などせず、娘の夢を応援してくれた。
その母に、会社を辞めたいなど、とても言えなかった。
東京で自分の夢を叶え、毎日充実した生活を私が送っていると信じている母に、私が先輩社員からひどい仕打ちを受け、満たされない日々を送っていることを告げれば、彼女はどれだけ心配することだろう。
母のことを考えると、そう簡単に辞意を表すことはできない。
それでも時間が経過するにつれ、少しずつ確実に私は追いつめられていった。
唯一の相談相手は依子だけだった。依子も依然として私と同じように嫌がらせをうけていたが、その程度はわたしよりやや軽いものに思われた。
理由は私の涙腺がすぐにゆるんでしまうためだろう。ちょっとした叱咤で私がすぐに涙ぐむことが、室田の神経をさかなでしていたのかもしれない。
辞めるか、耐えるかの狭間で逡巡するたび、私の脳裏では室田の顔と母の顔がふりこのように交互に現れては消えていった。
神保町に吹く風がが冷たく木々を揺らす頃には、私は自分の席につくだけで涙が出るようになっていた。
私はついに耐えきれなくなり、依子だけに胸中の思いを打ち明け、母への申し訳なさに涙しながら、退職届けをしたためた。
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