第1章

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 その一方、日本の海軍でも米海軍のような油圧式や蒸気式のカタパルトも研究されたというが、一説によれば、結果的に、日本の海軍ではその装置に必要とされる部品やアクチュエーターと呼ばれる装置(モーターやシリンダー、ソレノイドなどを連動させたもの)の開発に成功を収めることができず、実用には至らなかったようなのだ。  その、必要とされていた部品とは、オイルシールと呼ばれるゴムパッキンの様な物だったそうなのだが、油圧式の場合、航空機を発艦させる為の瞬発力を得るのには、ピストン内のオイルを相当の高圧にしてやらなければならないのだ。が、そのオイルの圧力が外部に洩れないようにする(正確には、圧力を適度に逃がしてやる)為の、その部品の製造には、高度な技術や精密な機械の設備が要求されたのだ。しかし、残念ながら当時の海軍にはその両方共を取り揃えることが叶わなかったのだというのである。   二  やがて、日が暮れてきたので、冒頭で触れた、館山湾での水上機の発着訓練をそろそろ終えようかとしていた頃、母艦上で、 「これではどうにもならんなー」  と、大きな声でそう言い放った者がいた。  そこには、沈痛な面持ちを隠せない、翌年の大正四年から水上偵察機を搭載する予定をしていた、戦艦「朝日」の乗組員である二人の海軍士官の姿があった。  その二人とは、吉成(よしなり)少尉と大山少尉であり、二人は海軍兵学校第四十期生の同期の間柄であった。そして、その大声の主はそのうちの一人の大山少尉の方であった。この日、日本海軍が日露戦争時に拿捕(だほ)した英国の輸送船を改装し、水上機母艦となっていた、「若宮丸」からの水上機の発着訓練の見学に参加した二人は、水上機が海戦などいざという時に、偵察や索敵及び砲弾の着弾観測の他に戦力としてどれほど有効に使えるものなのか、参考までにその実態をこの機会に知ろうとしたのだが、その前に、試しにこの発着作業がどれぐらいの時間を要するものなのか、上官の許可を得て、実際に計ってみようということになったというのだ。そこで、吉成少尉が記録を付ける役を引き受け、大山少尉が計測役として、懐中時計を片手に所要時間を図りながら二人してこの作業を見守っていたのだが、その結果があまりにひどいものであったから、二人は、お互いに顔を見合わせるしかなかったという訳なのだ。
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