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また、ある艦隊の司令官などは、日本軍の狂気的で執拗な特攻機の猛攻にこれ以上は耐えられないとして、撤退要請を上層部に具申したが為に前線から更迭されてしまったという事例が記録に残されているという。
それらのことはともかくとして、吉成少尉の出身校である、海軍兵学校の第四十期の同期生、百四十四名は逸材揃いであったというが、大日本帝国海軍の隆盛期において、その根幹を支えたと云えるに相応しい錚(そう)々たるメンバーがいたというのだ。
海軍の八十年の歴史の中で、太平洋戦争中は常備軍として凡そ七十万名いたとされる将兵の中から、七十七名しか拝命されなかったという、軍人の位の中でも特別にして別格とされた、大将こそ出ていないが、同期生の彼らの中の多くの者が順調に出世を果たし、一千九十四名いたという、少将にまでなった者が三十六名、そして、吉成と大山を含めた三十名が晴れて、四百九十二名しかなれなかったという、中将の地位にまで上り詰めているのである。
その同期生の中から、主な者の名を挙げてみると、軍令部第一部長を務め、航空機主兵主義派であったという、福留繁中将。航空機推進派ではなかったが、米海軍太平洋艦隊ハワイ真珠湾基地攻撃作戦の立案に際しては山本五十六の案に賛同し、軍令部への説明や説得を行ったという、宇垣纏中将。同校を優等の成績で卒業し、航空機主兵主義派に賛同するようになったという、航空術全般の専門家でもあった、山口多門中将などがいる。彼らは、丁度働き盛りの年齢で軍人人生の盛りでもあった頃に日中戦争や太平洋戦争という、この国の存亡を賭けた激動の時代の真っ只中に置かれたことから、重大な局面に係わりを持ったり重要な任務を担ってこれを全うするに足る、とりわけ海軍の中枢となる軍人としての役割を果たした面々だったと云えたようだ。だが、惨(むご)いことに彼ら同期生の内の三分の一近くの者が海での戦いにおいて戦死したり、あるいは、のちの吉成中将のように戦中戦後にかけて戦病死したり、あるいはまたのちの大山中将のように自ら命を絶ったりしているのである。
第二章 軍備拡充計画
一
それから凡そ四年の年月を経た、大正七年の夏の頃。
大尉となった吉成は、霞ヶ浦海軍航空隊の飛行隊の分隊長として飛行教官の任に当たるようになっていた。
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