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特異な経験をしたこの子供が、血を浴びずにいられないことを二人の義兄は確信した。凪にとって、これは勝利の瞬間の再現なのだ。夫からの暴力にずっと耐えてきた妻は、その元凶を包丁で刺し殺すことによって全てを終わらせた。彼女はそれで終わっただろう。でも、その現場を見ていた子供の戦いはまだ終わっていない。男の暴力に耐えてきたのは妻だけではない、彼らの子供である凪も同じだ。凪はいつも怯え耐える母親にシンクロしていた。凪にとって、血を浴びることは、勝利の瞬間を得るための代替行為なのだ。
どうして俺を切らなかったんだと鳴海が聞くと、凪は困ったように眉を寄せた。そして、軽く五分は考えてから、だって鳴海は男じゃないと呟いた。それなら俺を切ればいいと秀明が言うと、凪からは同じ答えが返ってきた。殺さずにはいられないのかと鳴海は訊いた。血を浴びずにいられないのかとも。凪はその度に頷いた。終わらない悪夢を終わらせるには、べったり返り血を浴びるようなやり方で『男』を殺し続けるしかなかった。
その事件を境に、鳴海は裏の人間になった。繁華街でバーの店主をしていた鳴海は、そういう人間と容易に接触を持つことができた。正確には、鳴海の父親が裏社会に片足を突っ込んだ人間だったのだ。以前から面識のあった東条組組長の私兵になった鳴海は、凪に『男』をあてがった。殺してもいい『男』だ。裏社会でしか生きられないような、存在が掻き消えたところで気に留める人間すら存在しない、そういうどうでもいい『男』だ。いくら凪のためとはいっても、なんの罪も無い堅気の人間を殺すわけにはいかない。だからこれは、鳴海が考えた苦肉の策だった。
殺人に躊躇いがない凪は殺し屋としてとても優秀だった。もちろん仕事は殺しよりも脅しのための傷害がほとんどだったけれど、べったり返り血を浴びることができるという意味で凪にとって大差なかった。凪は血を浴びることによって粉々になった魂を再生していたのだ。もちろん、二人の義兄にとってどちらが大切なのかぐらい分っている。他人の命を奪うことは、可哀相な子供の魂を再生させるためとはいっても、許されるようなことではない。それは分かっている。二人の義兄たちは分かっている。それでも二人は凪にナイフを握らせてやらずにいられなかった。
十五才から凪は殺人を繰り返した。二十七才から鳴海は裏社会の住人になった。
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