秀明

8/11
前へ
/11ページ
次へ
 秀明は、末の弟に自分の姿を重ねた。今までたくさんの恵まれない子供たちを見てきたけれど、こんな風に記憶を揺すぶられるような気持ちになったのは初めてだった。有る筈の無い記憶だというのに、だ。真冬に全裸で発見された秀明は、それまでの記憶をすっかり失っていた。記憶が戻ることはなく、秀明の人生は七才から始まった。失った記憶を取り戻す努力はしなかった。秀明には、月照寺に来る前の記憶は必要なかったのだ。喪失してしまうような記憶だ、どうせろくなものではないだろうし、住職に『秀明』と名付けられてからの人生は悪くなかった。いや、生まれてから七年間の記憶と引き換えにしてもいいぐらい、『秀明』としての人生は良いものだった。  末の弟は、相変わらず繭の中にいたが、ときどき発作的に自分で自分を殺そうとした。理由は分からない。一体なにがその気にさせるのかも分からない。でも、そうすれば確実に死ねることを知っているかのように、子供は手首に刃物を当てた。止めてもらいたい自殺志願者は必ず事前にその兆候を見せるけれど、末の弟にはそういう分かり易さがなかった。ほんの少し目を離した時、本当に手遅れになりかけた。血塗れの子供を抱え、秀明と鳴海は救急病院に飛び込んだ。鳴海は泣きながら自分を責めた。自分たちの愛情が足りないのかもしれないと悩んだ秀明は、亡くした義理の母親を思い出した。たくさんの子供たちを育てた彼女なら、可哀相な末の弟にどう接してやっただろうと考えたけれど、秀明に答えは出せなかった。悩む二人を、おまえたちのせいではないと住職は慰めた。その事件以降、凪の手首と自分の手首を繋いで秀明は眠るようになった。明かり無しではとても解けないので、もしなにか行動を起こそうとしたらすぐに分かった。ただし、単にトイレという場合でも起こされるので、秀明の忍耐が切れそうになることも無いわけではなかった。それでも知らない間に死なれるよりはずっとましだった。秀明の地道な努力もあって、凪の自殺が夜中に行われることはなかった。ただし、昼間、ビルの屋上から身を投げようとしたことは度々あったので、警戒する時間が夜に限られるわけでもなかった。住職はもちろん、秀明と鳴海は、末っ子になったその子供に根気強く付き合った。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

105人が本棚に入れています
本棚に追加