秀明

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 凪に手がかかるのには理由があった。亡くなった父親は、母親の手によって殺されていた。しかも凪は、たった十才の頃にそれを見ていた。一晩中、全身を血に染めて、笑いながら父親を刺す母親の姿は、幼い子供の瞳に焼きついていた。  もちろん住職は、子供を引き取る時、施設や行政からその子供の背景を聞かされる。事情を知った上で、引き取るか断わるかを決めるのだ。とはいえ住職は、養育里親として打診があれば断わったことはない。もし自分が断われば、その子供にはもう行き先がないことを知っていたからだ。凪の場合も、最初に保護したという警察から事情を聞いていた。でもそれは、箇条書きにしたメモを、朗読のように聞いただけだったのだ。難しい子供だということを住職は事前に予想していたけれど、引き取ってから自分の甘さを思い知った。  なぜなら子供は血を浴びずにいられなかったのだ。手首を切るのは血を浴びたかったからで、飛び下りようとするのは全てを終わらせようとするからだった。子供の世界には二つしかなかったのだ。全身に血を浴びるか、全身をずたずたに裂かれるか。それは即ち、凪が最後に見た母親と父親の姿だ。  ある夜、血を浴びたいのかと鳴海は訊いた。すると子供は小さく頷いた。誰の血でもいいのかとも続けた。男ならと声がした。鳴海は凪を見つめてにっこり笑った。 「それなら、凪、俺を切らせてやる」  そして、凪にナイフを握らせてから、自分の胸をあらわにした。握り締めたナイフの切っ先を凪はじっと見つめた。もう気が済んだだろうと秀明が声をかけた瞬間、凪は自分の胸をざっくり切った。咄嗟に伸ばした鳴海の手も大きく切れ、みるみる畳の上に血が溜まった。取り返しのつかないことが起きてしまったと秀明が思っていると、鳴海が落ち着いた声で救急車と言った。混じり合った二人分の血で染まった凪を、同じく赤く染まった鳴海が抱きしめていた。病院にかかると、幸い切れたのは表面だけで、鳴海は五針、凪は十七針縫った。医者は事件ではないかと怪しんだけれど、当の鳴海が事故と言い張り、見ていたという秀明も同意した。なにより、寺の跡取りという秀明の立場は信頼を得るに十分だった。
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