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「菜摘!…菜摘!」
俺は動揺した。南雲なんかに気を取られて彼女から目を離すんじゃなかった。慌てて周囲を見渡す。このごった返す人波の中、そんなに遠くには行ってない筈だ。
少し離れたところに、流れに逆行するように無理に人の波をかき分けて遠ざかる後ろ姿が見えた。向かっていた方向、地下鉄の駅へとは反対側だ。
「菜摘!待てって」
大声で呼びながら必死で追いつこうとする。頭の隅で、そうかあんまり大きな声で名前呼ぶと、南雲って奴に気づかれるのかな、とも思ったが、そこまで気にしてられない。半年くらい前に一回きりだった女の子の名前まで覚えてない、と思うしかない。
俺はなり振り構わず菜摘の後を追いかけた。
何とか前へ進もうとするのに、なかなか思うようにいかない。駅と反対方向だからか、人の流れの抵抗がある。時折伸びあがって菜摘のいる方を見遣る。身体が小さくて力の弱い菜摘のことだから、向こうも今ひとつ思うように進めてないみたいだ。とりあえず今は見失わないよう、それだけを気をつけないと。
ある程度南雲って野郎から離れられた、って思えれば菜摘も安心して冷静になれるだろう。大体、こんな大勢の人中で、いくらその男が最低のヤツだからってそう変なことはしてこないはずだ。俺も側にいるわけだし。とにかくそいつが視界に入らない場所まで連れていって、宥めて落ち着かせてやればいい。
不意に周囲の人々がざわつき、俺はつられて空を見上げる。…雨だ。
さっきまでそんな様子はなかったのに、突然ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。春の雨なので、冷たくはない。むしろ温かさを感じる、優しい雨だ。 今日は気温も高いし、少しくらい濡れたからってすぐに風邪を引くってこともないかもしれない。でも、やっぱり心配だ。早く捕まえて落ち着かせて、安心させてやりたい。
そして暖かい部屋に入れてゆっくり休ませないと。
駅から遠ざかるにつれて、人混みもだいぶほぐれてきた。これならあと少しで追いつけそうだ。早足で逃げ続ける菜摘の後ろ姿が近づく。俺は必死で腕を伸ばして、彼女の二の腕に何とか触れた。
「菜摘、落ち着いて」
そうして何とかそのまま彼女を掴もうとした瞬間。俺はショックで立ち竦んだ。
激しい勢いで腕が振り払われた。まるで、汚いものを拒絶するように。
菜摘も一瞬で我に返り、自分のしたことを理解したようだった。呆然と自分の手を見つめ、ややあって俺の顔を見上げる。
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