一生、契約。

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松本眼科医院はサラリーマンの街に門を構えている。 患者の層、7割は女性。 綺麗でお洒落な外観は病院だとは思えない。 オフィス街の眼科は流行る。 しかも松本先生を見ただけで "眼精疲労"なんかそれだけでぶっ飛ぶくらいだ。 禅と出会ったのはここだった。 どうも目の調子がおかしくてフラりと入ったここで禅に会った。 ああ、松本先生にもか。 寒くなってきて、疲労が溜まった、くらいにしか考えてなかった。 水曜日は午前診療だと知らずに飛び込んだ午後。 誰もいない事を不思議に思っていた。 右目の奥の閃光がだんだん大きくなってきていて 時々欠ける視野。 それがもう、大部分が見えなくなっていた頃。 パソコンのせいじゃないのかもしれないと思ったのがきっかけだった。 「じゃあ、またひと月後な」 「ああ、いつも悪いな」 診察室の扉が開いて白いシャツの男性と スーツの男性が目の前で並ぶ。 なに、この俳優レベルのメンズ……。 先に目が合ったのが禅だった。 「松本、患者」 耳に届いたのは、深くてしっとりとした音。 残念な事に視野が欠けていて顔をハッキリと捉えられない。 「申し訳ありません、水曜日の午後は休診なんです」 白いシャツの男性が松本先生だった。 休診、と聞いて物凄くガッカリしたのを今でも覚えている。 「そうなんですか、こちらこそ、すみませんでした」 振り返ってソファへ置いた荷物を探るように手繰り寄せる。 右側はほぼ、見えなかった。 特に下の方が見えない。 コートを羽織り、バッグを持って出ていこうとした私を呼び止めたのは院長の方。 「手袋、お忘れですよ」 わざわざ差し出してくれたそれを受け取ろうと手を出した。 「ねぇ、見えてる?」 「え?」 これが、私たちの始まり。 診断は"裂孔原性網膜剥離"いわゆる、網膜剥離なのだそう。 しかも良くない事にかなりの広範囲に渡り上部が剥がれ落ちているとの事だった。 「見えてないでしょ」 「見えません」 「どうしてほっといたの」 「……パソコンばかりを扱うので、疲労だと……」 「明らかに普通とは違うでしょ? このままだと、見えなくなる」 これを奈落の底に突き落とされる、と言うんだろうか。 いきなり見えなくなる、と言われて私の頭はパニックを起こした。 当たり前だ。 見えなくなる、なんて考えた事、ない。
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