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電話に出た歯科助手の女性には何となく訊けなかった。たまたま空きのあった翌日の予約だけをとって電話を切った。
歯が他人の物で歌をうたう。考えれば、今すぐにでも引っこ抜きたい衝動に駆られる。歯磨きの時に歯ブラシをあてることもはばかられる。だけど一日辛抱して僕は歯科の受診を待った。
ステンレスのトレーに並べられたドリルの先を眺めていた。
「こんにちは」
太った歯科医が斜め後ろから挨拶をした。口の中でもごもごと挨拶を返す。どう切り出そうか。倒れた背もたれに体を預けているから話しにくい。首をねじるようにして歯科医を見る。マスクのせいで表情は見えない。
「その後いかがですか? 痛みとかは出てませんか?」
どことなく歯科医の声に緊張が感じられる。彼は僕の返答を待った。これまでは返事をするかしないかのうちには治療に取りかかり始めていた。ささやかな違和感。でもそれは僕に彼の抱える後ろめたさを確信させるに十分だった。
「痛みはありませんけど……」
どう言おうか。歌うと言えばいいのか。今現在も間違いなく歯は歌い続けている。そうだ聞かせればいい。歌を聞かせて、それから誰の歯だったのか、どういうつもりでそんなものを僕の治療に使ったのか問い詰めればいい。
「……とりあえず被せてる歯を外してもらえますか?」
こちらの声に滲む怒りに気付いたのだろう。歯科医は何を訊くこともなく「わかりました」と頷いた。
歯科助手が無影灯を点けた。眩しい。いつも目にかけられるタオルを忘れている。向こうも慌てているのだろう。バキュームの音に歌声は紛れてしまう。口に何かの器具が入れられる。件の歯がゴツゴツガリガリといじられる。
何かが外れた感触があった。
歌声が消えた。
「あ」
歯科医が声をあげた。
口の中から、小さなハエがたくさん飛び出した。
チョウバエとかショウジョウバエのような、いわゆるコバエ。10匹以上いそうだ。
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