お題「記憶喪失の僕(私)の前に現れた人」

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お題「記憶喪失の僕(私)の前に現れた人」

 両開きの引き扉を手前に引いて開けると、駅長室のカウンターが僕を迎えた。カウンター中央の呼び出しブザーを押すと、ほどなくして駅員さんが現れた。見た目20代後半位の、若い駅員さんだ。 「はい。ご用でしょうか?」 「駅員さん! チップ届いてないですか! チップ!」 「チップ、ですか?」 「そうです! 落としたんです! 無いですか!」 「何のチップでしょうか?」 「僕の営業記憶が入ったやつです! グレー地に、猫の絵柄のついたやつ!」 「ええと、少々お待ち下さい」  駅員さんはそう言って、駅長室の奥にある端末を操作し始めた。 「すみません、急いでるんです! 今日の3時からお客さんに会うんです! お客さんについての記憶をそこに外出し保存してあって、無いと困るんです!」 「今探していますので、少々、お待ち下さいね」    2016年。人工知能が、囲碁で最強クラスの名人を破る快挙を成し遂げた。その頃には既に、人間の記憶を機械に移植して「生き永らえる」研究が進んでいたらしい。  15年後の現在、2031年には、記憶の「外出し」を可能にする派生実用技術が誕生していた。一方、人格を機械に実際に移動した例は、少なくとも公式には、存在しないことになっている。  縦2センチ、横1センチ、厚さ数ミリのプラスチック外皮を持つチップに、人間の記憶の一部を外出し記憶し、そして脳内の該当記憶を消去する。これにより、脳には余剰容量が生まれ、新たな知識をインプットすることが可能になる。「一時的に子供のスポンジ脳に戻る」と言って良いだろう。  実生活に必要になった外出しデータは、脳内の余剰領域にその都度、チップからインプットし直す。それが今や、当たり前の事として行われていた。  その結果、人間の能力、いや「脳力」は飛躍的に向上。加速度的に進化する人工知能に対し、知識面において、互角の勝負を繰り広げていた。  囲碁ではもう、人間が勝てることなんて無くなって久しいけれど。  記憶外出し用チップ、通称「OMC(オプション・メモリー・チップ)」の普及が進展した現在、普段使い程度のものであれば、ミドバシカメラで14800円前後で購入可能だ。
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