序章

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動きたいのに、彼の手は意外に強く、私の服を離してくれない。 それに、距離がわからないからか、彼の顔が私の近くに来ているので、ますますうろたえてしまう。 それにしても、この声、どこかで……。 「俺、いつもこの裏庭に来ていたんです。 そしたら、たぶん、換気口からなのかな? あなたの歌声が少しだけ聞こえて。 ずっと、気になってたんです」 この人は、変だと思っていないのだろうか。 廃墟に近い無人の建物の中で、大声で歌っている私を。 「いえ、そういうわけには」 「ここで歌うくらい、誰の迷惑にもならない。 あなたの邪魔はしませんから。 もっと、聞かせてくれませんか」 どうして彼は、こんなに強く、私を説得しようとしているんだろう。 私は思わず、斜め上にある彼の顔を見上げた。 高い鼻、優しそうな口元。 目もとはわからないけれど、この顔を、私は見たことある。 さっきとは違う鼓動が、私の記憶を打ちたたく。 知っている。
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