塀の上

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 あまりに鮮明な声に驚き、咄嗟に後ろを振り向く。見渡せる範囲すべてに目を向けてみるが、誰もいない。首をひねりながら進行方向へ顔を戻そうとした時、私は初めてその存在に気がついた。 「もうダメだ……」  さっきと同じ声。  白く伸びたヒゲ。  三角の耳。  曲線を描く背中と、その先にちょこんと生えた短いしっぽ。  全身を柔らかな毛に覆われたそいつは、塀の上に座っていた。  どこからどう見ても、猫の姿で。 「……ニャーン?」  挨拶のつもりで声をかけてみる。 「は?」  疑問符に満ちた返事をされた。  わけが分からない――とでも言いたそうに怪訝な表情をしているが、わけが分からないのはこっちの方だ。 「ね、猫が、しゃべっ」 「あのさぁ。人が落ち込んでる時に、話しかけないでくれる? 慰めるならまだしも……。適当なこと言われると余計凹むっていうか、鬱陶しいから」 「えっ、うん、なんかごめん……」 「分かってくれたなら、いいけど」  そう言って猫は立ち上がる。そのままどこかへ行ってしまうのかと思うと急に惜しくなって、私はそいつを呼び止めた。 「ちょっと待って!」 「何? 別にどこにも行かないよ」 「……そうなの?」 「少し、体をほぐしたかっただけ」  猫は諭すように言うと、前足を伸ばす。背中が沈み、尻がぐいっと上がる。ピンと立った短いしっぽがとても愛らしく見えた。 「それで、なんでミーに話しかけたの?」 「ミー?」 「……飼い主がそう呼ぶんだよ」  ミー、というのがこいつの名前らしい。猫が言葉を発したことに驚いて気づかなかったが、よく見ると赤い首輪をしている。 「なんでって言われても……。近くに猫がいたら、とりあえず話しかけるのが普通じゃない?」 「だからって、猫に向かってニャーンなんて言う? こっちからすれば煽られてるようなものなんだけど」 「え、そうなの? でも、外国人に英語で話しかけるようなもんじゃない? ほら、日本語だと伝わらないかもしれないし、同じような感覚で猫にも」 「その前提が、猫を馬鹿にしてるんだよね」  ミーは呆れたように溜息をつく。猫に溜息をつかれるのは初めてだ。 「英語で話しかける時は、少なからず意味を理解した上で相手に言うでしょ?」 「うん」 「じゃあ猫語の意味、分かってんの?」
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