0人が本棚に入れています
本棚に追加
ミーが右前足で顔を撫でる。グイグイと撫でては前足を舌で舐め、また撫でる。この行動の意味は知っている。
「一雨来そうだな」
耳の後ろまで洗い終えるとミーが言う。空を見上げると、いつの間にか灰色の雲が厚く重なっていた。
「本当だ。私も帰らないと」
気晴らしと運動不足解消を兼ねて行っている散歩は、今日はここまでにしておこう。面白い話も聞けたことだし、なかなか有意義な時間だった。
塀の上のミーも立ち上がる。今度こそ行ってしまうのだろう。
「ちょっと待って。最後に聞かせて」
「何?」
「私が通りがかった時、なんであんなに落ち込んでたの?」
この世の終わりだ――なんて台詞を映画やドラマ以外で聞いたのは初めてだったし、まさか人生初のそれが猫の発言だとは思いもしなかった。
「ああ、ちょっとね。飼い主が、結婚するって言うから」
「……そっか」
「でも、なんか吹っ切れたよ。久々に人間と話したせいかな」
「飼い主さんとは話さないの?」
「飼い主はミーの猫語が好きだから。それに、猫語だとこっそり愛を伝えられるし、結構いいことも多いよ」
「そっか」
ミーが笑う。――本当は怪訝な表情も笑顔も、猫には作れないと分かっている。それでもミーは笑っていたし、だから――私も笑った。
ミーは塀の向こう側へ降りた。最後に、短いしっぽがピンと立っているのが見えた。再会の約束はしなかった。
私も塀から顔を背け、来た道を戻る。この散歩道は毎日不定期に歩いているが、ミーの存在を知ったのは今日が初めてだった。だからといって明日から散歩の時間を合わせることはしないだろうし、ミーも毎日ここに来るわけではないだろう。
それでもいつか、もし偶然また会うことがあったら、その時は何を話すだろうか。
飼い主の結婚相手のこと、ミーの日常。それとも、今回話せなかった私の生活や、飼っているミドリガメについて話してみようか。
そんなことを考えているうちに、自宅の玄関へ着いた。扉を開けると、見慣れた大きな水槽が待っていた。
「ただいま、カメさん」
いつも通り声をかける。そういえばカメ語というのは存在するのだろうかとふと考えて、カメには声帯がないことを思い出し苦笑した。
靴を脱ぐ。
廊下を進んでいる途中に、その声は聞こえた。
「最悪だ……この世の終わりだ……」
私は咄嗟に後ろを振り向き、その存在に気がついた。
最初のコメントを投稿しよう!