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「この患者は、極度の妄想癖にとりつかれていましてね。現実と空想の区別がついていないのですよ。ずっと夢を見ているのです」
「まあ、じゃあ、入院した頃と全く変わっていないんですね」
「そう。今朝も、世界が水の底に沈んだとか言って、空の洗面器で必死にバケツリレーをしていましたよ。窓から水を捨てるんだって言ってねえ」
なんだよ。ここがすっかり乾いたのは、ぼくが頑張ったおかげじゃないか。それを、あんな風にせせら笑うなんて。
頭にきたぼくは手を伸ばして、医者の鼻についている大きなほくろをぐい、とつねってやった。
すると、ぷちん、とほくろがとれて、そこからシュルシュルと空気がもれだしたかと思うと、みるみるうちに医者は風船のようにしぼんでしまった。
肥ったおなかがじゃまだったから、ちょうどいいや。
「早くよくなるといいね。これ、お見舞い」
彼女は、ぺちゃんこになってしまった医者をひょいとまたいでベッドに歩み寄り、花束をぼくの方に差し出した。まるで夕陽のようなオレンジ色の花だ。
「カンナ、っていう花なの。よかったら飾って」
「これはこれは、どうもありがとう。ちょうど空の花瓶があるんです」
いそいそと棚から陶器の花瓶を取り出す。
「よかった、これに入れられる花が見つかって。花瓶もきっと喜んでいることでしょう」
コロコロコロ。
玉を転がすような音が聞こえたので振り返ると、彼女が口元に手を当てて笑っていた。
参ったな。君が笑ってくれるのは至極嬉しいけれど、そんな楽しそうにクスクスやられると変な気分になる。
「……なにか?」
「ううん。敬語がおかしかっただけ」
そう言ってぼくの方に向けられた彼女の瞳に、ぼくは思わず魅入られる。かわいいな。かわいい。すっごくかわいい。
「まだ、私のこと思い出していないのね」
発せられたその言葉は、有罪宣告だった。
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