213人が本棚に入れています
本棚に追加
義元が、ぎっと睨んで振り返った時には、佐治は刀をしっかりと収めていた。
「心底、惚れ込む主があるというのは羨ましい」
そう洩らした佐治の顔は、やけに切なげで、義元は怒る気も失せてしまった。
「そちの今の主は、元康であろう」
「……惚れ込んではおらぬし、餓鬼のために死ぬ気はさらさらない」
「元康を見限るか」
「それは……ない」
一瞬の間をあけて佐治は否定した。
そうして、すぐに憂いを凪いで、いつもの阿呆面を晒す。
「桜は感傷に浸らせて困りますな」
「……」
もう義元は声をかけなかった。彼は大内義隆を愛してやまぬ忍びなのだろうから。
「義元様、何時も油断をされてはなりませぬぞ」
酷く静かな声音で告げて佐治は影へと消えていった。
脳内にこびりつきそうになる佐治の声を振り払い、文机に突っ伏した義元は意に反して目尻に涙が滲んだ。
(忍びは嫌いだ……。己を見透かす)
だが、心底信頼を寄せる相手もまた忍びである。
「長門……──」
消え入りそうな声で呟くと、今度はその気配をしっかりと背後に感じる。
そこから伸びた指先が、義元のすべらかな髪をそっと梳いていく。
やがて首筋の傷へ薬が塗り込まれていった。
「佐治の奴……いつか殺す」
「そうしてくれ」
義元は小さく笑んで同意した。予期しない言葉に長門は目を丸くし、小首を傾げた。
「今すぐ、とは命じぬので?」
「あれは、元康の忍びであるからのう」
義元は振り返って長門にしがみついた。
最初のコメントを投稿しよう!