第二章

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翌、五月──。 予てよりの里帰りのため、元康は岡崎へと発った。  「数正殿……」 朝から出立して昼日中、ぼそりと呟く元康に、数正は何度めかの溜め息をこぼした。  「殿、いいかげん往生際の悪い泣き言はおやめくだされ」  「そうは申しても……気が晴れぬ」  「鬱陶しい時季にござりますからな。至極当然とはいえ、此方が陰鬱になるような発言はいただけませぬ」 つれない数正の返事に、元康は富士の山や松を眺めては、長い溜め息を吐いた。 瀬名の見送りを受けて意気揚々と発ったものの、すぐに愚痴と溜め息が洩れだす元康は、このまま引き返したい気分であった。  「岡崎には、どんな陰湿な輩共がおるのやら」  「殿……。左様なる陰湿者は……殿かと」  「…………。ああ、嫌じゃ。馴染みのない岡崎なんぞ」 幼き頃より駿府に住まう元康にとって、岡崎が遠い思い出と化していることは、数正も重々承知していた。が、道中ずっと呟き続けられたのでは堪ったものではない。  「殿。瀬名姫様への土産でもお考えになられては?」  「何じゃ、唐突に。いくら瀬名姫の名を出しても、わしは転がされぬぞ」 むっと顔をしかめる元康だが、その口許は僅かににやけている。その単純さに数正は、なかば感心したりしつつ静かな道中に安堵したのだった。 すぐに元康は機嫌のよい口調で話す。  「岡崎で墓参りも終えたら、鷹狩りをして……駿府へ帰る前には瀬名姫の土産を用意しよう」  「よろしいかと思います」 数正は若干、適当に頷きを返した。
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