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正信を戯れ言で置き去りにし、颯爽と部屋に戻ってきた元康は、すぐにむっと鼻に皺を寄せた。独特な香の甘い匂いが煙り、嗅ぎ慣れない薄い霞みは胸焼けを起こしそうになった。それを暢気に立ち上らせているのは、声をひそめて笑う佐治であった。
「殿。談義は御済みでござりますかな?」
「天狗殿…。この匂いは嫌いだ」
元康はまるで拗ねた子供のような態度をとった。佐治はくすりと笑いながら、なおも燻らせた煙管を手にしている。
「殿のお帰りが遅うて、大量に燃してしまいましたなぁ」
「吸っておらぬなら、無駄に燃すな」
義元はもっと上品な香りを漂わせていたが、佐治の煙りは妙に甘い。元康は腕組みし胡座をかいたが、頬は微かにひきつっている。
「斯様な殿は正直で好ましい」
佐治は面白がるように言い、煙管の雁首を返した。何もかも見透かしたような、まっすぐな瞳で元康を見つめる。
「如何にござりました? 家臣たちは」
「悪くはなかった……」
ぼそりと呟く元康を佐治は笑い飛ばした。元康はたまらず盛大な溜め息を洩らし頬を緩めた。
きっと正信に述べた言葉は忠世から家成たちに通じているだろう。他人事のように宣い、軽く振る舞って岡崎武士を小馬鹿にしたことが。
「殿も意地が悪うござりますな。岡崎衆は奮然と武功をたてることを考えましょう」
「いや、武だけでは困るのだがな。暫く様子見だのう」
欠伸をしながら言う元康に、佐治はさすがに苦笑を堪えきれなかった。
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