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* * *
「ねぇ。いつになったら、私を殺してくれるの」
私がそう尋ねると、彼はほんの僅かな間絶望の淵に突き落とされた表情をした。彼のそんな顔が、私は好きで好きで堪らない。今すぐにでも、その首筋に腕を回して抱き締めたい衝動に駆られるほどに。
一年前の雨の日、私と彼は桟橋の上で出会った。そして私はたちまち彼に惹かれた。彼の、目に。彼はまるで、夜の闇を閉じ込めたような眼差しで私をじっと見つめていた。夜の闇、と言っても、孤独で冷たい夜じゃない。母が幼い頃枕元で子守歌を歌ってくれた時のような、優しい夜の色だ。
そして彼は言った。僕が貴女を殺してあげる、と。私は問い返した。本当に私を殺してくれるの、と。彼は頷いた。
私が傘の柄を持つ彼の手に自分の手を添えると彼は私の肩を抱いて歩き出した。そうして私はこの部屋に転がり込んだ。
「ねぇ。……殺してくれないの?」
再び私が尋ねると、彼は不自然に感情のない声で『まだ殺さない』と答えた。その無表情の仮面の下には一体どんな苦悩が隠れているのだろうか。溢れ出しそうになる歓喜を何とか抑え込み、私は彼に追い打ちを掛ける。
「いいよ。……ずっと待ってるから」
これは、魔法の言葉。彼の逃げ道を封じて閉じ込める為の、ささやかな嘘。彼は私の囁きに、真っ暗な部屋に閉じ込められた幼い子供のような表情になって私から顔を背ける。私がこの言葉を囁けば、どんなに繕っていた表情でもたちまち崩れていく。私のたった一言に、彼は雁字搦めに捕らわれてしまう。
愛されていると、感じる。
本当のところ、彼が私を殺してくれるのなら私はそれで構わない。だけど……もし彼が私を殺せなくとも、それはそれで構わないのだ。彼が私を見てくれるなら、愛してくれるなら、何だっていい。その為になら貴女に尽くす、純潔な女だって演じよう。
私の命が絶える、その日まで。
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