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こんな息子が欲しいと笑うミサキに思わず乾いた笑いをしてしまった。
「ん、あら。いらっしゃい」
からんと音を立てた扉にミサキの手が止まり、にやけた顔が営業スマイルに変わった。躊躇いなく踏み出す靴音は常連だろうか。その足音の主はこちらから数席離れたカウンターの隅に腰掛けた。
「いつもので良いの?」
おしぼりを差し出しながらミサキがカウンターの男に問えば、その男は頷き小さくそれに答える。
あまり見ない顔だが最近の客だろうか。ここからその顔をはっきりと見るには些か遠い。けれど煙草を銜えた横顔はまだ若い印象で二十代半ばか、もしかしたらそれより若い。しかし顔にかかる長い前髪が窺い見ようとする顔立ちを遮り、それ以上わからなかった。
「最近の客?」
カウンターの中で動き回るミサキに小声で話しかけると、彼女は一瞬きょとんとした顔でこちらを見た。
「あ、渉ちゃん初めて? ここ最近、んー、二ヶ月前くらいから来てるわよ彼」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ丁度俺が日本離れてた頃か」
「そういえばそうだったわね。撮影旅行で行ったり来たりでいなかったのよね。紹介しましょうか? なかなかいい男よ」
意味深に笑うミサキに小さく唸ってから、俺は首を左右に振った。
「いい、若そうだし」
「渉ちゃんだってまだ若いでしょ」
「若くないよ。俺はミサキちゃんの設定より一個上だから、もうおじさんだもん」
「設定じゃないわよぅ」
そう言って片眉を上げたミサキに笑ってグラスを口に運ぶと、ふいに視界の隅で視線を感じた。反射的にその先を振り向くが、こちらを見る視線はもうそこにはなかった。
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