一杯のコーヒーとたくさんの行く道と

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 田んぼの中に一軒だけある喫茶店には蝶ネクタイのマスターがいる。鼻の下にちょっぴりのひげを生やしているのはチャップリンという昔の喜劇俳優にあこがれているから。  喫茶店は田んぼの真ん中にある。右を見ても左を見ても、山のふもとまで全部、田んぼ。マスターはコーヒーを淹れながら、窓の外の田んぼを眺める。夏の日差しの中、青青としたまだ若い稲が風にゆれていた。  ふと、遠く陽炎の向こうに人影が見えて、その人が畦道を通って喫茶店にやってきた。 「いらっしゃいませ」  口を横一文字に引き結んで難しい顔をしたその人は、マスターにちょっと頭をかしげてみせた。どうやらうなずいたようだった。その人は四十代くらいでろうか、何かに怒っているかのような、それとも泣きそうなのをこらえているかのような顔をしていた。 「ホットコーヒー」  その人はむっつりした声で注文した。ぴしっとアイロンのかかった真っ白いシャツを着て、きゅうくつそうに感じるほど姿勢正しくカウンター席に座る。  マスターは小さな白い布の袋にコーヒー豆を入れて、真っ白なコーヒーカップにセットした。コーヒー豆はモカの粗びき。しゅんしゅんと沸いた細長いヤカンの優雅なカーブを描いた細長い注ぎ口からお湯をちょっぴり注ぐ。コーヒー豆がちょっとだけ湿って濃い色になり、あたりにコーヒーの芳ばしい香りが立ち上る。鼻をぴくりと動かしたそのお客さんの表情が少しだけくつろいだ。  香りが少しおさまってからマスターはコーヒー豆にお湯を注ぎ足す。少しずつ、少しずつ、丁寧に、丁寧に。そのたびコーヒーの香りが店の中にふわりふわりと広がって、マスターを、お客さんを、香りが包んでいく。 「どうぞ」  真っ白なお皿に乗った真っ白なコーヒーカップ。その中でゆらめく黒曜石みたいなコーヒーと芳しい白い湯気。お客さんはカップを取ると鼻を近づけて香りを楽しむ。目を細め口元には微笑を浮かべて。ほっと吐いた溜め息もコーヒーの香りで満ちていて、お客さんの体の芯までゆらゆらと湯気で満たされた。にこりと微笑んだお客さんはゆっくりとコーヒーを飲みほした。 「ごちそうさま、マスター。私はもう行きます。行くべき道が分かりました」  お客さんはカウンター席から立ち上がるとマスターに挨拶して店を出た。田んぼの上にゆらゆらゆらめく陽炎の中にゆらゆら揺れるような軽い足取りでお客さんは消えていった。
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