馬鹿で醜悪な愚者

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石ころは彼女と出会うまで水底に沈んでいた。溺れていた。不安に嫉妬や孤独といった汚濁に塗れた水の中で、俺は一人もがき苦しんでいたのだ。 彼女はそんな地獄から俺を拾い上げてくれた。命の恩人と表現しても過言ではない。彼女は自分を評価してくれる。期待してくれる。褒めてくれる。自分が自分であることを認識させてくれる女神のような存在。それを失うなど、あってはならないことなのだ。 それに彼女は頭が良いのだ。間違ったことを言うわけがない。 「もし……もしも、俺が合格出来なかったら?」 不安から出た疑問。それに対して彼女はクスリと笑う。 「その時は」 その時は、どうなるのだろう。 やっぱり彼女と別れることになるのだろうか。ああ、だとするならば尋ねなければ良かった。耳を塞ぎたい、そのまま何処かへ立ち去りたい。傷付きたくない。知りたくない。 そんな俺の思惑をよそに彼女は言葉を紡ぐ。 「ずっと待ってるわ」 「え?」 ずっと待つ? 「私も一緒に浪人してあげる。そう文字通り『ずっと待ってる』から、だから何も心配しなくて良いわ。……その変わり、ちゃんといつから合格してよね?」 ニッコリと微笑む彼女に対し、俺は何と答えたのだろうか。記憶にない。多分、同意したと思う。 気付けば帰宅していた。 「酷いことになった」 自室で独り項垂れる。 ずっと待ってる、だって? 本当にそんなことがあり得るだろうか。俺なら絶対そんなことはしない。愛想を尽かして逃げる――俺ならその行動を選ぶ。多分それが一般的で、彼女の言ってることを鵜呑みにするわけにはいかない。 きっと裏切られる。落ちたら、それでお終い。 「やらねば」 その日から勉強を始めた。 ただ『勉強を始めた』という表現は適切ではないだろう。なぜなら成績が伸び悩んでいただけで、触れてこなかったわけではないのだ。命を賭す猛勉強を始めたという言い回しの方が正確かもしれない。 嫌だ、あの頃にだけは戻りたくない。 その一心だった。 勉強に次ぐ勉強。寝る時間を削り、食事の時間を縮め、趣味の時間を消した。ただひたすらに机に向かい独りもがくのが日常となる。
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