第1章

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 駅の姿見には、わたしと女の姿が映っていた。 「ずっと待ってるから」  女はいった。わたしは肩を抱きよせて答えに変えた。姿見の中のふたりは、ひとつになった。  ふたりにとって、それが欺瞞でしかないことに気づく程度には、わたしは世間というものがわからないわけでもなかった。  特急に乗り、東京へ出て三年後には、ずっと待っているはずの女は、わたしに新郎の隣で微笑む花嫁姿の写真を載せた年賀状を送ってくるほどになっていた。腹を立てる理由もなかった。こちらは、地元に戻る気などまったくなかったからだ。地方の大学を出ると、地方の抱える構造的な諸問題は解決不可能であり、これなら東京で仕事をしていたほうがはるかにマシである、という結論に誰だってたどり着く。  だいいち、女のことなどを考える余裕はなかった。不動産を扱う仕事についたわたしは、目まぐるしい毎日を送っていた。一年三百六十五日を通じて、トラブルが発生しない日はまったくなかった。  そして今、不動産屋の社員として十年目を迎えた。ある程度の金は貯まった。この調子で働いていれば、三十年後には、今の状況で日本の経済が推移すれば、老後を送るのにどう考えても不十分なだけの資産にしかならないことがわたしにはわかった。  それだけではなかった。都会での不動産業には見切りをつけたほうがよさそうだ、ということまでもがわかってしまった。計算高いだけでは、自分の店を持つことは難しいのだ。少なくとも、店を維持していくことは不可能だろう。  なにより、わたしは自分自身がすり減ってしまっているのを感じていた。考えていたよりも、ストレスに対してのメンタル面が弱かったのだ。堆積した疲れは、これ以上東京にいては、最終的に、肉体か精神かどちらかの破綻しかもたらさないと告げていた。  すべてをまとめ、わたしは故郷へ帰る特急に乗った。とにかく、今はゆっくりと寝たかった。東京ではそれすらも贅沢品だったということに気づき、わたしは愕然とした。  ようやく、特急は駅に停車した。わたしはスーツケースを力なくがらがらと引きずりながら、ホームを歩いた。のどの渇きを覚え、売店に立ち寄った。  女と鉢合わせした。女はわたしを見てびっくりしているようだった。わたしもびっくりした。コートとスーツケースは、有閑夫人が旅行に行くためのものとは思えなかったからだ。
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