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ただの希望だった。現実逃避でもある。今しがた指で検証した足跡を大型と勘違いしただけだと、思い込もうとしている。
そして視線を右へと巡らせる。
ふと暗いばかりの視界に新たな色彩が認められた。
脳は急遽その像を処理した。
「ひっ」
もはや息を飲んだ音というよりもしゃっくりに近かった。
声を出すつもりは決して無かった。
生理現象。それだけ突飛で大きな音を立てずにいられなかったのである。
(ひょ、う?)
豹。
居る。
右斜め五メートル先の木の上に。
黒い斑点に覆われた見事な肢体より何段か下の枝には何かが引っかけられているみたいな陰があった。よく見れば食べかけの大型動物の屍だ。
巨大なネコは眠っていたところを邪魔されたかのように億劫そうに首をもたげて瞬いている。
そこで拓真の呆然とした時間が終わった。
(さ、さっきの、落ちてきた音で、起こし、起こしちゃったのかな)
思考回路が躓きに躓く。
ガタガタとした震えが指先に始まり、全身を浸食してゆく。
(死体、ガゼル系かな。ヒョウってせっかく狩った獲物を横取りされないように、木の上に引きずって隠すって、本当なんだ)
その知識を思い出したのも束の間の現実逃避だった。
(どうしよう。すごいなあ。どうしよう。あんな大きい物を枝の上に引きずれるくらい強いんだ)
どうする。五メートルではいくらなんでも近過ぎる。走って逃げ切れるとは夢にも思わない。
槍を投げるべきか。
人間の発達した脳の最も原始的な部分に残る条件反射。選択肢は二つに一つ。
ふたつに、ひとつ。
――戦う? 逃げる?
(逃げられるわけない逃げられるわけない逃げられるわけない逃げられるわけない逃げられるわけない……)
目の前が再び真っ暗になった。
逃げられるわけない。でも戦うのは怖い。コワイ。シニタクナイ。
豹は喉から低い警告の鳴き声を発した。
そして小早川拓真は全力疾走していた。捻挫した足の痛みは意識から除外して。
脳のどの部分がその判断を下したのかはわからない。彼は獰猛な大型ネコに、向かって、走っていた――
それからは奇跡以外の何物でもなかった。
ゴオッ、と豹が咆哮して跳んだ瞬間、運良く拓真は振り仰いでいた。
(来る!)
元々優れていた動体視力が、恐怖から洗練された集中力により、最高の精度に極まっていた。
だが肉体の反応速度は劣る。
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