30.山なりに

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 台地を降りる際――人口数百人の集落でありながら――珍しく誰ともすれ違わなかった。悪天候の所為かそれとも殺伐とした展開が続いた所為なのか、民の大半はできるだけ自宅に引き篭もっていたいのだろう。平時であれば夜遅くまで弾んでいるはずの、笑い声や歌声が聴こえない。  それでいて何故自分は住民たちに倣わないのか。雷光が無ければ周囲は真っ暗になっているような時刻なのに――  外を出歩こうと決めたことを後悔するような出来事が無ければいい、と切に願う。 *  とりあえず久也は何事もなく滝の前に着くことができた。日頃の雨により膨らみ上がった河は、夜にはその迫力が倍となる。なんとなく水の落ちる音が昼間よりも大きく響いて聴こえた。  いつもながらに見事に平衡感覚を奪う音であった。しかも激しい風の音や木の葉が擦れる音が水音に混じり込んでいる。  それなのに、虫や蛙の鳴き声はしない。 (居るのはわかってるんだけどな。声を潜めてるってことは、やっぱ何かヤバイもんが来るのか)  動物の勘は信用して然るべし。天気が崩れたら迷わず洞窟に逃げよう。  小走りになりかけたその時、突然の強風に飛ばされて水飛沫が顔に思いっきりかかった。運悪く口の中に入り、飲み込んでしまう。するとそのさっぱりとした味わいに驚いた。 「生水なんて飲めたもんじゃないと思ってたけど……結構美味い」  インドなどでは明らかに不衛生な河から水を飲んでも病気にかからないと主張する地域もあるらしいが、何故安全なのかと地元民に問い合わせたところ、「神聖だから」と返るらしい。もしやこの滝の水も、巫女姫の言う通りに「清い」のだろうか。少なくとも上流から降ってくる滝の水は確かに下流の穢れを洗い流せそうな気がする。上流に何があるのかまではわからなくても、何故かそう思えた。 (俺は感化されてきたのかもな。寄生虫もコレラも気にしなくなるくらいには)  洞窟の入り口まで駆け込んだ頃には、小雨が降り出していた。いつの間にかかなり気温が下がってしまっている。岩に腰をかけ、滝の水に手を伸ばした。指先で触れるか触れないかの距離で手を止める。そうしていると謎の安心感があった。  心が落ち着かないのは、天候以外にも理由がある。 (あいつら、うまいこと進んでるかな)
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