33.moralization

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「ははははは! やった! うまく行ったぞ! 貴様らはこの腐った世界で朽ち果てるがいい! 私は帰る! これでやっと帰れる!」  内容を飲み込んで、戦慄した。  緩慢な動きで首を巡らせる。祭壇の真上には何か、細いひし形のモノが宙に浮かんでいた。周りの風景を裂いて穴を作ったような真っ白い亀裂。平たく言えば異世界へのワームホール。ベタな外観だからか、他の可能性は考えなかった。  そしてこれを開く為の代償が、一体何人の命であったのか――! 「間違ってる……! こんなの間違ってる!」  そう叫びかけると、ようやく、藍谷英だった人間はこちらに目を合わせてきた。  紫色の靄がかかったみたいな、濁った目だ。 「ふん。この世界に善悪の概念などない。あるのはせいぜいペイバックの概念だけだ。滝の神を崇める集落でも、人殺しを禁忌とする掟はあったか? 無いだろう? 人を殺さないのは、報復されたくないからだ。『人として正しくないから』ではない。大事なのは己と家族と同胞だけだ。私は順応したのだよ、拓真。この世界の価値観に合わせてやった」 「違う! それは順応じゃなくて、自分の中にあった道徳観から逃げる為の口実だ! 善悪の概念が壊れたのは英兄ちゃんの方だよ……!」  全力で食い下がったが、英は聞く耳持たないようだった。 「もはやどうでもいいさ。さらばだ」  何かが吹っ切れたみたいな後ろ姿に、憎悪さえ覚えた。追いかけて手を伸ばしたが、この期に及んでまだ邪魔が入る。飛びついて来た敵を払っている間にも、英が亀裂に触れるのが見えた。  掃除機みたいに、ズズッと吸い込まれて彼の姿は消えた。  だが、亀裂は劇的に輝き出して消えたりはしなかった。  あくまで堂々と存在し続けている。  普遍の現象のように、宙に浮かんだまま蠢いている。 (ダメだよ、英兄ちゃん。今その格好で現代日本に戻ったって、ただの不審者として逮捕されるよ)  血まみれ・ほぼ全裸・大量のピアス――どこを取っても「撮影です」と誤魔化せるレベルをゆうに超えている。などと、ひどく間抜けな思考が脳裏を過ぎった。  もう一度、白い亀裂を呆然と眺める。 (あれに触れば、帰れるのかな……元の世界に)  一抹の切望が胸の奥で煌めいた。戻れるだろうか。あの平和で、忙しないながらも楽な生活に。  濁流のような感情と思考の波に耐え切れずに腰が抜けた。
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