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(わかんない。もっと近くに行こうよ)
(ああ)
上空から見下ろす形のまま、そっと近付いた。
東洋人男性の首から提げられたIDカードには、中国風の名前と「准教授」の文字が記されている。三十歳前後に見えるのに准教授であるなら、かなり優秀な人物といえよう。
「大体あの日、君は一人で散歩に行ったんだ。突き落とそうにも僕はその場に居なかった」
准教授は腕を組んで抗議した。それに対し英は一歩踏み込んで人差し指を指した。
「いいや、誘ったはずだ。電話口で風車の丘まで一緒に行かないかと誘ったのを憶えている」
「ああそうだ! 憶えているよ、確かに誘われた! だが午後の予報は大雨だからと、僕は断ったんだ」
「なんだと……言い逃れはできんぞ!」
准教授はまた何か叫びたそうにした。面持ちに激昂の予兆が過ぎったが、ふと我に返り、彼は組んだ腕をほどいた。
「そっちこそ、言いがかりはよしてくれ」
売り言葉に買い言葉では埒が明かないと判断したのか、彼の声は急激に冷静さを取り戻していた。
「僕はこの十年間、一日だってスグルを思い出さなかった日は無かった。ずっと後悔していた、何故あの日引き止めなかったのだと! どうして一言『行くな』と口にしなかったのかと……!」
「こんな時ばかり調子の良いことを言う――」
歯軋りしそうな形相だった英が唐突に言葉を切った。両目を瞠った後、握り拳が小刻みに震え出す。
「十年、だと?」
「そうだ。十年も失踪していたではないか。大丈夫か? 君は一体今までどこに居て、家族に連絡の一つも寄越さずに、何をしていたんだ?」
浴びせかけられた質問が聴こえなかったかのように、英はよろけて額を押さえた。
(やっぱり英兄ちゃん、こっちとあっちとで時間の流れが違うって気付いてなかったんだね)
(まあ俺らだってアイツという「生きた界渡り」に関する証言の矛盾が無ければ気付かなかったかもしれないけどな)
准教授は同情の混じった柔らかい声色で再度、大丈夫かと問いかける。
「記憶があやふやだと言うなら、ちゃんと専門家に診てもらった方がいい。それになんて身なりをしてるんだい。その染みは血か? よかったら一緒に近くの病院に行こう」
彼の優しさは、伸ばした手は、即座に相手の掌によって打ち落とされた。
続く威嚇気味な上目遣い。低く落ちた声。
「ヒトを『きちがい』を見るような目で見るな。不愉快だ」
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