36.真意、はかり知れず

5/6
前へ
/217ページ
次へ
(おれは家建ててる最中に食べた塩漬けの魚がとびきり美味しかったのを憶えてる。夜は、蚊避けに燃やしてる植物がすっごい変な臭いだなーって思ったかな?)  後になって思い返すと、喜劇を見るような軽い気持ちになれた。その当時は何をするにも必死だったのに。 「僕はあの苦しみを永遠に忘れない。きっと他の人からしてみればばかばかしい悩みばかりなのに、僕にはあの時の心細さが深く根付いていて消えないんだ……二十年経った今でも」  それから物悲しそうに英は語った。  最初の夜、言葉が通じなくて困っていたのに、巫女姫の口から零れた「生贄」の単語だけ意味がわかったこと。逃げ出して走り回っていた際に、前庭で生ごみを燃やしている民家を数多く通ったこと。夜に響く動物の鳴き声、その声の主がただの蛙だったとしても、いちいち震えあがったこと。  水を飲んだり何かを食べたら不治の病にかかるのではないかと怯え、空腹と脱水症状に一晩耐えたこと。 「朝になったら慎重に木の実を取ったりマンゴーを剥いたけど。あの最初の夜、僕は水分補給の足りていない、熱に浮かされた頭でうだうだ悩んでいつまでも眠りにつけなかった」 (まあ、そうなるのも頷けるけどな。俺たちはそういう意味では運が良かった) (うん……)  初対面では攻撃してきたが、巫女姫サリエラートゥはその後はちゃんと一から面倒を見てくれたのだ。彼女だけではない、戦士三兄弟やユマロンガ、他大勢の集落民たちも言葉が通じなくてもよくしてくれた。感謝してもしきれない。 「あの世界での夜は、暗かっただろ?」 (電灯が無いもんね) 「あの中を走り回った私の気持ちがわかるか? 家庭のゴミを燃やしていただけの……勢いの無い炎を見る度、自分を焼く業火が追って来ていると思い込んだ私の気持ちが?」  いつの間にかまた、口調が崩れている。北の部族の長をしている時の彼の傲岸さが戻っていた。  紫の瞳に新たな狂気の閃光が過ぎった。 「ああ、わかるぞ。憐れみと憎しみの間で揺れ動くお前たちの感情が」 (英兄ちゃん……) 「全て無意味だ。毒を食らわば皿まで、という日本語のことわざがあるように、私はとうの昔に、後戻りできなくなっていたのだよ」  ――俄かにその男の姿は消えた。  残像も無く、そこに残ったのはおかしな紫色の燐光だけである。  拓真は驚愕に仰け反った。
/217ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加