6人が本棚に入れています
本棚に追加
39.やすらぎとは
陽が昇る――
それは明るみの中で生活する者にとって、一日の始まりを意味する。
数時間前までの大雨が嘘だったかのように、晴れやかな朝だった。日差しは天高くそびえる木々にその恵みを浴びせ、幅広い木の葉の間から漏れる輝きは緑と交わって地に降り注ぐ。地を這う生き物は憧憬と共に眩しそうに頭上を仰ぎ、これから気温がいかほどまで上がり続けるのかを、肌で感じ取る。
ふと、しなやかな影が悠然と空を横切って行った。黒い翼を広げ、橙と黄色の尾羽をなびかせる野鳥である。
その残影を僅かばかり見つめ、少女はため息をついて視線を足元に落とした。
ふくらはぎから脛へと流れ抜ける水をしばしの間、目で追う。陽光は濁った水に射し込み、ところどころ反射して散り散りになっている。
少し先では、音も立てずに枯れ落ちた木の葉が、流れに乗って遠ざかってゆく。何故だかもの悲しい気持ちでそれを見送った。
なんとなしに大きく息を吸い込むと、濃厚な草木と河の香りが全身を震わせる。
――この郷(クニ)は、美しい。
滝神さまの加護のあらん限り、未来永劫続くであろう、普遍的な真実。
大地に足をつけて息をする権利を、此処で暮らす同胞の未来を、守る為ならばどんなことをしてもいいと思っていた。それだけの価値が故郷にあると、ずっと信じて疑わなかったのだ。
疑問を抱くようになったのはいつからだっただろうか。
平穏の代償とは、進歩とは、何であるのか。
背後にそびえる滝の清廉なる水が肩を打つのを感じながら、サリエラートゥは回想していた。世界を隔てる境界にできた白い亀裂が、明滅して小さくなり、やがて無に収束した時を。一部始終を見守りながら抱いた、複雑な想いを。
異界の青年たちは、生まれ育った世界に帰らずにこちら側に残る方を選んだ。そのことを想うと申し訳なさで胸が潰れそうな反面、嬉しさと安堵を覚えてしまう。
(私はひどい人間だ)
彼らは個人の願いを打ち捨てて、神の依頼を優先したのだ。それは紛れも無い偉業であった。
そんな尊い決断を讃える言葉や表情は、自己中心的な歓びによって濁されることだろう。
河から冷水を掬(すく)って思いっきり顔に浴びせかけた。
(こんなものは、巫女が抱くべき感情ではない!)
激しく頭を振った。水を吸った髪が重く硬くなって肌を打つのも気にかけない。
最初のコメントを投稿しよう!