39.やすらぎとは

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 ヒサヤは起き抜けとは思えない快活さで跳び上がった。思わず身構えたが、それきり話は続かなかった。文句の内容が明らかな心配を含んでいたおかげで、こちらの苛立ちも矛先を折られたのだ。  サリエラートゥは上流の岩の上に置いておいた清潔な衣服を身に纏った。腰まである長い髪を絞りながら、再び河岸に降り立つ。 「その……気分はどうだ?」 「目を覚まそうと念じたからって簡単には覚めないもんなんだな。とりあえず、クッソ暑い」 「確かに今日は特に暑いが、雨季とはこんなものだ。なんなら、濡れて涼んでみたらどうだ」 「そうする」  素直にヒサヤは提案に従った。右足を浸してそのままするりと滑り込み、完全に潜った。数秒後には頭だけで水面を突き破る。それからは、両腕を前に伸ばして後方へと水平に払う動きを繰り返した。泳ぐという行為をよく知らないサリエラートゥの目には、その一連の動作がとても不思議に映る。 「あー、胸糞悪い。人を殺した後味なんて、およそ人生で味わう日が来るとは思ってなかった」  いつしか青年は浅場に立って、自分の両手を見下ろしている。今にも吐きそうな顔だ。実際にあの男の息の根を止めたのはタクマの方だったが、最初の一撃を与えたのはヒサヤだったと聞く。 「…………後悔しているか」  消え入るような声で問うと、彼は微かに笑った。 「まさか。後悔ってのは、自分が選択を間違えたって、後になって気付いた時にするもんだ。そもそも選択肢なんてなかったのなら、気にするだけ無駄だ」 「あったぞ。滝神さまの依頼を無視してあの亀裂を通ることだってできたはずだ。帰る、ことだって……」 「じゃあ逆に訊くけど、俺らがあの時去ろうとしたなら、アンタは引き止めなかったのか?」  一瞬だけ、サリエラートゥは呆気に取られた。絡んできた視線が、あまりに真剣だったからだ。 「引き止めていた、と思う。いなくなられると寂しい。お前たちが来てからは、当たり前のようにめくるめくだけだった日々が、色鮮やかになった気がしたんだ」――言い募ってから一拍を置いた。ついに訊かずにいられなくなる――「お前はこの世界が好きか?」 「嫌いじゃあないけど、別に好きでもないぜ」  即答だった。落胆したのは言うまでもない。 「そ、そうか」 「けど、アンタらのことは好きだ。何から何まで感謝してる。それだけで、向こうの世界に帰る可能性を手放した甲斐はある」
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