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パチン! と長が指を鳴らせば、北の民はそそくさと動き出す。沼沢林の端に目星をつけてそれぞれの民が荷物を広げる。ユマロンガたちの手伝いに行こうと踵を返した、その時。
輿から降ろされた長の横顔が一瞬だけ目に入った。歩く勢いで髪がさらりと流れ、これまでよりもはっきりとその面貌を捉えることが可能だった。
(……あれ?)
見間違いかと思って拓真は目を乱暴に擦った。次に瞬いてみる。
何度瞬きを繰り返しても、目に映った影は尚もしつこく存在を主張し続けた。
(そんなはずない。だって)
その解答では、辻褄が合わない――――。
落ち着きを失くした心音が頭の中に響いていてうるさい。
(ダメだ)
確信も無い内に今ここで騒ぎ立てるわけには行かない。そう自分に何度も言い聞かせる。
拓真は叫びたい衝動を堪えんと、舌を前歯で噛み締めて制した。
*
遡ること半日。
会合に向けて各位準備に取り掛かっていた頃、主賓の二人はだらけて過ごしていた。
「あーつーいーねー。頭沸きそう」
「俺はとっくに沸いてる。つーか暑いとか口に出すな、余計蒸し暑さが現実になる」
「言っても言わなくても暑いに代わりないよ。寒いって連呼したって寒くなるかなぁ」
「思い込みの力なめんな」
「うーんんん」
小早川拓真と朝霧久也はエアコンや扇風機の無い世界で猛暑に耐えている。
目の前には水の壁がある。滝神の最深部と言われる洞窟の入り口に座り込んで、滝から落ちる冷たい水に足を濡らしていると、耐え難い蒸し暑さもいくらか楽になる。
とりあえず思い込みの力に頼ってみようと考えて瞼を下ろした。寒い場所を思い浮かべたり、これまでの人生で特に寒かった日を思い出そうとする。そうしていると心なしか暑さが和らいだ気がした。
しばらくの沈黙の後、拓真が額の汗を拭きつつ言った。
「ところで久也さあ、顔むっちゃくちゃ怖いんだけど」
考え込んでいるだけなのはわかっているし、見慣れてもいる。 しかし心配だった。
「じゃあ見るな」
頬杖ついた久也が、生気の残数あと僅か、という具合に力なき囁きを返す。
「そうも行かないっしょ。何悩んでんの、今度は? 今日の会合のこと?」
「それはそれで気になるけどそっちじゃない」
チッ、と彼は舌打ちして続ける。
「……帰る方法が全然見当たらない」
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