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鬼胎を抱く女
それは天の月が赤い夜であった。
火の玉のように煌々とした月色で、夜の底が赤く滲んでいた。
「牛子君、そう緊張するな」
寺田寅彦(てらだとらひこ)がプカリと煙草をのみながら言った。
「もー、教授ったら。そんなこと言っても、怖いんだから仕方ないです」
私は歯の根が合わない声で言い訳した。
丑三つ刻──人通りは無い。それも当然で、夜な夜な奇っ怪な幽霊が出るとの噂がある、ここは深川の猿子橋である。
「陰陽師の末裔がそれでは、笑うに笑えんな」
寺田が痩けた顔で笑うから、それが疫病神みたいに見えて一層震えた。
夜食に取っておいたヨーグルトを頬ばる。これは大正6年に発売された乳製品で、その年に寺田が帝国学士院恩賜賞を受賞していた。
「陰陽師と言っても妖怪退治をする方じゃなくて、天文学に通じた昔の科学者ですからね」
「牛が牛を喰ってる」と笑う寺田に、私はまた言い訳をした。
私こと天神牛子(てんじんうしこ)は、土御門家の家司である若杉家の分家であるが、東京帝国大学で寺田の助手をしている。
巷間では陰陽師の免許を持っていると噂されるが、それについてはノーコメントである、あしからず。
「はあ、はあ」と寺田が相槌を打って「であるからして、謎の探求に来たワケだ」
この傍迷惑な教授は、痩身で背が高く、まっすぐなお辞儀をする、どこか超然とした雰囲気のおじさんである。
生前の正岡子規や、小説家の夏目漱石とも交友があったそうだ。
カミナリがなぜまっすぐ飛ばないのか? と身近な謎を疑問に思う、好奇心のカタマリで変な科学者なのである。
最近は大正11年に来日したアインシュタインの予言する重力波を考察して、大気重力波と地震の関連性を実験している。
「でも教授、ホントに鬼女の幽霊が出るんですかね?」
「ふむ。この辺りは江戸城の鬼門にあたり、猿子橋も鬼門除けの役割を果たしていたのだよ」
「どうして猿が鬼門除けなんですか?」
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