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「あれは5月末の地震で壊れたものだな」
寺田がそう言いながら、先刻まで座していた大きな石を持った。その石を振り上げて、尖った欄干をザクッと削り落としたのだ。
「あっ、鬼女が──」
牛の赤子を抱いた鬼女の舞踏が、赤い月光でたゆたうように、徐々にその姿を霞ませた。
それが夢幻であったかのように、赤い余韻を残したまま霧散して消えたのである。
「これで善し」
「どういうことですか?」
哀しい眼で虚空を見詰める寺田に、私は疑問に思って訊ねた。
「鬼の角を取ると災いが来ないという謂れがあるから、橋の尖った角を削り取ったのさ」
「それで鬼女が消えたのですか!?」
「鬼女が現れた因果の一部を取ったに過ぎぬよ」
「なにか、心の奥底から怖くなる光景でしたね……」
「牛子君は、鬼胎を抱いたワケだな」
「なんですか、その鬼胎とは?」
また疑問に思って訊ねた。
「鬼胎とは本来、幽霊から生まれた子供を意味する。これに例えて、心の裡にひそかに恐怖を抱くことを、鬼胎を抱くというのだよ」
「まさしく鬼胎でした……なにか縁起が悪いですね」
「原因に縁して結果が起きる法則を縁起と呼ぶが、この縁起の悪い原因が善からぬ結果を招かなければよいが──天災は忘れた頃にやってくる」
寺田が煙草をのみながら、遠い眼でそうつぶやいた。
寺田が予見したように、奇しくもその翌々日に、関東に未曾有の被害をもたらした巨大地震──関東大震災が起こったのである。
──『鬼胎を抱く女』 御仕舞
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