第1章

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 彼女と結婚した日から、まだ一年と経っていない。だが、別れの日は近くなりそうだ。  彼女は、家事もそつなくこなし、料理も格別うまい。近所でも美人と評判で、しがない小説家の私にはもったいないくらいの女性だ。彼女自身も私の事を愛してくれていると思う。別れの原因は我々の愛情の深さではない。  結納を済ませてから一ヶ月と少し後、戦争は始まった。ラジオでは好調を伝えているが、楽天できるような状況ではないだろう。近所でも何人かの男が徴兵された。そいつらが戦地へ向かう度に、ご近所総出で万歳していたが、私は戦争になぞ行きたくはない。我らの国が負けるのは目に見えている。わざわざ死地に送るのに喜ぶなんて阿呆のする事だ。こんな事は口が裂けても言えないが。  二つ隣の甚平に令状が届いたのが、二週間ほど前だったから次は私かもしれない。  玄関の呼び鈴がなり、目の前で食事をしていた千代の肩がビクリと震える。千代は私の目を見つめる。その目には、不安や心配、緊張といった、総じて悪い色が浮かんでいた。  中々出てこない家人に焦れたのか、呼び鈴がもう一度鳴らされる。居留守を使うわけにも行かず、千代を目で促す。  案の定、しばらく経つと、玄関でドサリと音がした。行くと、千代が倒れている。その手にはやはり、召集令状が握られていた。  顔面蒼白の千代を助け起こし、水を一杯飲ましてやるが、口をパクパクさせるだけだ。  私自身はと言うと、でも驚く程に落ち着いていた。 「千代、紙と墨を用意してくれないか。それと、飯はもう下げていい」  一瞬の間の後千代は頷き、居間へと向かった。私は自室の机の前で腕を組み、千代を待つ。 「紙と……墨をお持ちしました」  声は震えており、背を向けていてわからないが体も震えているのではないか。 「ここに置いてくれ」  平静を装っているが、徴兵という現実が時を跨いで襲ってきた。千代の手前、それを表に出すわけにはいかなかったが、襖が閉じた瞬間、涙が溢れて止まらなかった。  どれ程の時間が経ったのか。きっと目の腫れも引いているだろう。机の上には田舎にいる両親と千代の両親。そして千代自身に宛てた遺書だ。それらを持って、千代がいるであろう居間に行く。ちゃぶ台の前で正座していた千代は、私が前に座ると顔を上げた。 「私が帰らなければ、これを開けてくれ」  まずは千代に渡す。
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