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「ねえ、柳」
「はい!」
柳は何か感づかれたのかと思い、びくりと跳ね上がった。
「まだ技の掛け方覚えてる?」
「技? 柔道ですか?」
けれど長谷川の表情は穏やかだ。逆に不安げだと言ってもいい。
「うん、そう。昔あんたをいっぱい投げ飛ばしたよね」
「はい……何度も」
柳は苦笑した。
「バンッて技が決まると心の中がスッとしてさ、爽快だった。あの頃は自分で処理出来ない妙な不安も感情も無かった気がする。若いから根拠のない自信があったんだね。歳を重ねるたびにいろんな事が不安になってくる」
「……」
柳は急に静かな声で語り出した長谷川をじっと見た。今まで見たことのない長谷川だ。
今まで、と言ったところで、柳はほんの一年半しかこの女性と関わっていない。
本当はこの人のことをよく知らなかったのではないだろうか。
柳はふとそう思った。
「何かありましたか? ボス」
「いや、何もないよ、たぶん。何か近頃不調でね。歳かな。自分で何が苦しいのか分からないときがある。きっと答えは単純なんだろうにさ。億劫で探しに行かないんだ」
柳は長谷川の言葉をじっと聞いていた。
まるで自分の心を覗いて読まれてるんじゃないだろうかと怖くもなった。
「柳、あんたには悪かったね。力技であんたを押さえ込もうとして、随分投げ飛ばした。お陰であんたは受け身しか覚えなかったよね」
長谷川が笑った。
柳は心の底で何かがじわりと滲んだ気がした。眠らせていた感情。
だが、正体は分からない。億劫で、探しに行けない。
「ボス、またいつか技を掛けてください。結構スッキリするんです。投げられた方も。お陰で受け身はプロ級です」
柳も二カッと笑った。
「ああ、いい顔だよ。この前は死んだ目をしてたのにさ。よし、了解。じゃあ、また会ったときにね」
「また会ったときに!」
長谷川は軽く手を振ると、その狭い階段を登っていった。
”また会ったときに。”
大人の社交辞令でもなく、面倒くさい契約でもなく。
願いにも似た、程良い繋がりを余韻に残すその言葉が、柳にはとても心地よかった。
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