薬師

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      まだ世界を知らない私は、頑ななまでに脆弱だ。 自分の手で生かした人が、死にゆく姿を見送ることはしたくない。 しかし、目の前の命を軽んじることもできない。 どれだけ無駄だと言われようと、生かそうと動く手は止められないのだろう。 その手には何も持っていなかったはずだ。 持てる知識は間違いなく深い。そして人を救う事に臆病さを感じない。 だが、人の言葉には滅法弱い。 「今日の所はこれにて下がらさせて頂きます」 「あぁ陽が暮れてしまったようだな。」 「刻を見てまた改めて参ります」 仕舞終わり元通りの薬箱をそっと持ち上げ自分の左横へ置くと一つ礼をした。 逃げたわけではない、ただ自分という殻が壊れるのを感じたくなかった。 一度清算が必要だ、その言葉にも自分の心にも。 その青年の思惑は私の意思と相反していないかどうかを。 口ではいくらでも良く言えるのは言葉の欠点だろう。 この青年は、未だ尚、その目に陰り一つみせなかった。 「香乃」 私は薬師として生き、薬師として終わりたいただそれだけだったのだ。 立ち上がり背を向けたその時に呼ばれた自分の名、跳ね上がった肩には動揺が、振り向いてはいけないとわかっていて向けた首には意思が確かにあった。 目を見てはいけない、人を生かす為にその生涯を薬に捧げた恩師を、親を、裏切るような考えは持ちたくなかった。 「やはり、薬は不思議だな」 「・・・」 「薬師として人を救えないのは罪と、そう言ったな」 「えぇ、」 「今から言うのは単なる戯言だ、聞き流してくれても構わない」 手に汗が滲むのが分かった。 薬箱を落とさないようにと掴む手に力が入る。 座ったままで肘掛を支えに体を傾ける青年は私を見て一言、自身が明言した戯言を吐いた。 「救える命を救わないのは、薬師にとって罪ではないのか?」
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