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なんとか左手でボタンをしめて、佐智の言うぼさぼさ頭の髪の毛を摘む。気になる長さになったら適当に自分で今まで切っていたのだが、前切ったのが周に会う前だったので、もうずいぶんと伸びていた。後ろ髪はゴムで結わけるし、前髪も顎の近くまである。
前まで美容院に行っていなかったのは、至極単純な理由だ。外に出て、美容院なんていう至近距離で知らない人間と狭い空間で接するのが嫌だったから。会う人間が限られているのだから、容姿に気を使う必要なんてなかったのだ。
しかし、今回奏多が美容院に行こうと思ったのは、周に何か言われたからとかそういうわけではない。なんとなく、奏多があまりにも酷い格好をしていない限り周は何も言わないだろう、なんて予想がある。
そうではなくて、もっと違う理由。
「誰かがどうこう言ったからじゃなくて、行きたい場所があるの。流石に整えたほうがいいかなって思ったんだよ」
「行きたい場所?」
「うん。――ばあちゃんと、あと母さんのお墓。一回も行ってないから」
クローゼットからカーディガンを掘り起こす。春になりようやく暖かくなってきたので、厚手のカーディガンを羽織ればそれほど寒くないだろう。
これもゆっくりと右腕を通して軽く整え、準備ができたと佐智を振り向くと、コーヒーの缶を中途半端に上げた形で佐智が目を丸くして固まっていた。
「どうしたの」
「いや、お前が墓参りなんていうから……びっくりした」
「サチ兄の中でどんだけ俺は常識がないんだよ」
「墓の存在すら頭にないと思ってた」
「あのね? はぁ。……ばあちゃんにこの部屋のお礼、言いたいんだ」
相変わらずソファとテーブルなどの必要最低限のものしかないリビングを、奏多は見渡した。
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